前回まで昨年(2023年)のお盆の「出羽国で寺社めぐり」の参詣記を書いていました
が、今回から2024年年始の「紀伊国で寺社めぐり」の参詣記を…紀伊国へは2023年
の年始も出かけていて、この時は紀伊国一の宮三社の内の二社(紀伊国は一の宮が三社
あります)、日前神宮・國懸神宮さん(こちらもどうぞ)と伊太祁曽神社さん(こちら
もどうぞ)を参拝、さらに「熊野三山」も参拝という寺社めぐりでした。今年は残る
紀伊国一の宮、和歌山県伊都郡かつらぎ町に御鎮座の丹生都比売神社さん(こちらも
どうぞ)と高野山を参詣…武州住まいの〝火打石〟夫婦が紀州に出るのは一苦労。
3年前まで住んでいた駿州(駿河国=静岡県)を経て西へ、西へ…夫の運転で東名、
新東名、名神を進み、紀州に着くのは夕方近くになるわけで、出発当日は「紀伊国で
寺社めぐり」はできない。途中の大阪府で寺社めぐり。昨年は泉州(泉大津市、
和泉市、泉佐野市)で寺社めぐりをしましたが、今年は南河内(河内長野市)で
観心寺さんと金剛寺さんをお詣りさせていただきました。今回の記事は観心寺さん
(ウィキペディアはこちら)の参詣記となります。
※「紀伊国一の宮」についてはこちらの記事をご覧になってください<(_ _)>。
※「泉州」、「南河内」という表現はこちらを参考にさせていただきました
(こちらも参照 大阪府の【府の地域ブロックの区分】も参照)
※観心寺さんについては河内長野市観光ポータルサイト(こちら)や大阪公式
観光情報(こちら)のページもお読みになってください<(_ _)>。こちらの
記事もどうぞ。
昨年もUP(こちら)していますが、東名から見る雪の富士山。
昨年の大河ドラマ「どうする家康」…浜松市には申し訳ないのですが〝火打石〟は
今年の「光る君へ」の方が面白いなぁ。
はるばる来たぜ河内長野市…河内国の一の宮は枚岡神社さんですが、こちらは静岡市
在住時にお詣りしています。その時は一人で新幹線と近鉄線を乗り継いで河州を
訪ねたわけですが(奈良国立博物館へ行くのに併せて)、今回は夫の運転ではるばる
武州大宮からやって参りました。
「髙野山真言宗 遺迹夲山 檜尾山 觀心寺」、「勅願道場 南朝史蹟 觀心寺」と
あります。「遺迹夲山」とは、“真言宗の開祖である弘法大師・空海が住まいとした
場所を指す言葉だそう。”とこちらのページにあります。
1/5に詣でたので、初詣の看板がありますね。
影でお解りになると思いますが、この時点で夕刻が近づいている…
観心寺さんの金堂は国宝です(こちら参照 文化遺産オンラインのページはこちら
こちらのページもどうぞ)。
金堂でお詣りをして
矢印に従って進みます。(道興大師さまは観心寺さんの“実質的な開山”←ウィキ
ペディア「観心寺」の「歴史」参照)
☝建掛堂(こちら参照)。ウィキペディアには
境内にある建掛塔(たてかけとう)は、一見、普通の仏堂のように見えるが、
三重塔の一重目だけが建てられた未完成の建築である。伝承によれば楠木正成
は、建武の新政の成功を祈願して三重塔の建立を発願したが、造営なかばで湊川
の戦いで討死したため建築が中断され、そのままになったという。なお、現在
あるものは再建されたものである。討死した正成の首は当寺に届けられ、首塚に
祀られている。
と解説があります。
「後村上天皇檜尾陵参道」(こちら) 後村上天皇はウィキペディア(こちら)に
父の後醍醐天皇の遺志を継いで南朝の京都回復を図り、東北地方(陸奥国)
南部の宮城県多賀城市にある陸奥国府兼鎮守府の多賀城に入城。後醍醐天皇が
多賀城に創設したに奥羽将軍府(東北地方将軍府)のトップとして、北朝を
擁する室町幕府軍と南北朝の内乱を戦った。のち大和(奈良県)の吉野・
と解説がありますが、宮城県多賀城市に御鎮座の陸奥惣社宮さん(〝火打石〟夫婦は
一昨年の霜月にお詣りしています)のこちらの記事にも、後村上天皇の“「多賀国府」
に下向”についての記述があります。この記事には北畠顕家公の陸奥国下向も記されて
いる…「出羽国で寺社めぐり」の「鳥海山大物忌神社 吹浦口の宮」の参詣記で
「北鼻顯信寄進状」について少し触れましたが、顕信公は顕家公の弟君…参詣した
神社仏閣のつながりを目にするのも〝火打石〟の寺社めぐりの醍醐味の一つです。
☝後村上天皇の陵です。
楠木正成公の御首塚…南朝の忠臣 楠木正成公についてここで語ることは無用
でしょう。現在〝火打石〟の家では朝日新聞を購読しているのですが、朝刊の連載
小説『人よ、花よ、』(今村翔吾 作)は大楠公の嫡男・正行公が主人公となって
いて、〝火打石〟は毎日楽しく読ませていただいております。小説の舞台はまさに
この辺りで、それを思うと感激も一入…
ウィキペディア(こちら)には観心寺さんは、“伝承では、大宝元年(701年)、
役小角(役行者)が開創し、当初、雲心寺と称したとされる。その後、大同3年
(808年)、空海がこの地を訪れ、北斗七星を勧請したという。これにちなむ7つの
「星塚」が現在も境内に残る。なお、北斗七星を祀る寺は日本では観心寺が唯一で
ある。”と記されています。
☝大楠公の銅像。逆光で申し訳ございませんm(__)m。
観心寺さんで拝受した御朱印と御札はこちら☟(*^_^*)
観心寺さんは多くの宝物をお持ちで霊宝館もあるのですが、今回の参詣では泣く泣く
霊宝館の拝観を諦めた〝火打石〟…だってこの日どうしても金剛寺さんを
お詣りしたかったから。武州から南河内まで出られるチャンスはそうは無い、
なのでなんとか日暮れ前に金剛寺さんを参詣したくて霊宝館拝観は見送ることに。
2022年の9月、京都国立博物館で「特別展 河内長野の霊地 観心寺と金剛寺」を鑑賞
した〝火打石〟、この日霊宝館でまた寺宝を拝めたらどんなに嬉しかったろう…
観心寺さん、金剛寺さんをお詣りして高野山も参詣…今回の〝火打石〟夫婦の旅を
図示したような「鑑賞ガイド」。霊宝館拝観を諦めて河内長野市天野町の金剛寺
さんへ向かった〝火打石〟夫婦、日没近しでさて参詣は叶ったか…次回UPいたし
ますね(;^_^A。