奈良時代から、夏バテ予防食だった「鰻」
諸説入り乱れる蒲焼きの変遷


この夏は、猛暑の上に節電対策の強化で、体調の自己管理が必要となってきます。

 できるだけ強い日射しを避け、水分と塩分、体力を回復させる食事をきちんと摂ることが大切です。

 日本では、新石器時代から食べられていたと言われる鰻ですが、“夏バテ防止に鰻を食べる”という習慣は、奈良時代にはすでに確立されていました。

 『万葉集』の中で大伴家持が、

「石麻呂に 我物申す夏痩せに 良しといふものぞ 鰻捕り喫《め》せ」

と詠んでいるのがその証拠で、家持が、夏痩せした石麻呂(吉田連老)に「鰻を食べるといいですよ」とアドバイスした、というのですから現在と状況は変わりません。

ただしこの頃の鰻の食べ方は、筒状にぶつ切りにした鰻の真ん中に串を通して火で炙り、荒塩やたまり醤油、山椒味噌などをつけて食べるというものでした。

 想像するとグロテスクですが、この形状が蒲の穂に似ていることから、鰻の串焼きは「蒲焼」と呼ばれるようになったのだと、幕末に書かれた江戸の百科事典、『守貞謾稿』にあります。

 ただしこれには別の説があって、焼いた鰻の色が樺の皮に似ているから「樺焼」と呼ばれたというものや、『守貞漫稿』より数十年早い時期に山東京伝が書いた『骨董集』では、香りが疾《はや》く人の鼻に届くから「香疾《かばやき》」と呼ばれたのが当て字になった、とあり、判断に悩むところです。


さてこのぶつ切りの蒲焼き、江戸時代中期までは下賤な食べ物とされていました。

 丸いまま焼いても火の通りが悪く、余分な脂が落ちないために泥臭く、貧しい人足《にんそく》などが、精をつけるために食べていたようです。

 値段も蕎麦と同じくらいと言いますから、一串400円~500円くらいのものでした。

 その後、鰻を開いて串を横に数本通して焼いた、現在の白焼きにあたる「筏焼《いかだやき》」が発明されると、余分な脂が落ちて見栄えが良くなり、鰻の地位が向上します。


それがやがて現在に続く、甘辛醤油だれで焼く蒲焼になったのは、江戸後期のことです。

 醤油が持つ消臭効果で臭みを隠し、加熱効果で食欲をそそる香りを出すといった相乗作用で、「鰻とはこんなに旨いものだったのか!」と突然火がつき、まさしく人気は“鰻登り”。

 江戸の町は、栄養価の高い生活排水が川や海に流れるため、大ぶりで脂の乗った鰻が大量に捕れたのですが、ついには江戸前の鰻では需要が追い付かなくなり、近隣から仕入れたほど。


江戸前の鰻の中でも、特に深川で捕れた鰻はブランド品だったらしく、寛延4年(1751年)に刊行された『新増江戸鹿子《しんぞうえどかのこ》』には、「深川が鰻の名産で、深川八幡の門前で多く売られている。千住や尾久の鰻も売られたが、深川の佳味には及ばない」とあります。

 ましてや江戸産ではない近隣の鰻は「旅鰻《たびうなぎ》」と呼ばれ、価値がずいぶん下がったようです。

関東の背開き、関西の腹開き」という言葉があります。

 これは、東西の鰻の焼き方の違いをあらわしたもので、武士の町江戸では、腹開きは切腹に通じて縁起が悪く、商人の町上方では逆に、腹を割って話す必要があるからだと言われています。

 関東風は、鰻を背骨側から開き、頭とヒレを取って二つに切って串を打ち、一度白焼きにしてから蒸し、十分に脂を落としてタレで焼くので、ふっくらと柔らか、口の中でとろけます。


対して関西風は、腹から開いて頭もヒレもつけたまま、タレをつけて一本焼きにするため、皮はカリッと香ばしく、ジューシーで、脂が残っている分、タレは甘く濃い目です。

 式亭三馬の『浮世風呂』に、上方出身の女性が「江戸の鰻はやわらかいばかりでおいしくない」と言うシーンがあり、どちらをおいしいと感じるかはお好み次第ですが、これだけ工程が違うのは、おそらく元の鰻の質自体が違っていて、関東の大鰻は脂がきつすぎて、蒸さないとおいしくならなかったのではないかと思います。

 また、蒸すことを考えると、腹開きでは身が崩れてしまいますから、背開きにする必要があった、というわけです。


『土用丑の日』に鰻を食べる、という習慣は、文化文政年間(1804~1830年)から始まりました。

 発案者には諸説あって、最も有名なのは、江戸のダ・ビンチと称される、平賀源内が考えたという説です。

静電気に関する何の予備知識もなく、壊れていた「エレキテル」を復活させたことで有名ですが、薬草学にも明るく、絵を描き、ベストセラー作家&売れっ子コピーライターでもあり、日本で初めて博覧会を開催し、錦絵(多色摺り浮世絵版画)の発明に一役買い、石綿を発明し……といった、多彩なアイデアマン。

「夏は鰻が売れなくて困っている」と、源内のところに相談に来た鰻屋に、『本日丑の日』と書いた紙を店の表に貼らせたところ大盛況で、それ以来習慣化したという話ですが、そのアイデアを出したのが他に、蜀山人(大田南畝)や貝原益軒であったという説、鰻屋の春木屋善兵衛であったと書かれた書物などが残っており、定かではありません。

 ただし……江戸に鰻ブームが起こったのが、平賀源内が亡くなって40年後というのですから、この通説が最も眉唾ものなのかも知れません。


 関東での濃口醤油の発明により、「江戸前の四天王」と呼ばれる鰻・天麩羅・蕎麦・鮨の屋台文化が誕生しました。

 これらの中でもいち早く屋台から料理屋に格上げされたのは鰻です。

 料理屋では、注文を聞いてから鰻を開き始めるため、蒲焼が出てくるまでに40分以上はかかります。

 この待ち時間を利用して、鰻屋の二階屋や離れは、逢い引きに使われたとか。

 現在の価格で、蒲焼が一人前8000円もする店があったのは、おそらく個室料金だったのではないでしょうか(笑)。

ちなみに「うな丼(うな重)」は、芝居のスポンサーの大久保今助《いますけ》が、芝居見物中に出前で取る蒲焼が、冷めないようにおからに埋めて届けられていたのが気に入らず、「これでは味が落ちる」とご飯に埋めるよう指示したところ、ご飯にも味が染みて、別々に食べるよりおいしいと大喜び。

 これが評判になって、以降、この食べ方が定着したというもの。

 サンドイッチ伯爵が、ポーカーをやりながら食事ができるようにとサンドイッチを発明した逸話と、どこか似ています。

 この話にも別の説があって、四谷伝馬町の三河屋にいた料理人が、独立して噴屋町に店を持ち、丼飯の間に蒲焼を挟んで売り出したところ大繁盛したそうです。

 一杯六十四文(現在の価格でおよそ1600円)という記述もありますから、信憑性は高いように思います。



元禄8年(1695年)に書かれた『本朝食鑑』によると、鰻は「疲れを除き、腰や膝を温め、精力を盛んにする」とあります。

 各種ビタミン、ミネラル、カルシウム、タンパク質、脂質、DHAを含み、疲労回復、食欲増進、精力拡大効果がある鰻は、お墨付きのスタミナ食材というわけです。

 今年は鰻の価格が高騰し、高嶺の花になりつつありますが、最後に、輸入物のあまりおいしくない鰻をおいしくいただく裏技をご紹介しましょう。


ずはフライパンに割り箸を2本並べ、その上に蒲焼を乗せます。

 酒、大さじ2を入れ、蓋をして中火で蒸すと、鰻の余分な脂が取れ、柔らかくふっくらと仕上がります。

 この下ごしらえを済ませてから、うな丼を始め、いろいろな鰻料理にチャレンジしてみてください。






<DIAMOND Online 食の研究所 記事より>