歴史は社会の動きの連続 | ティータイム心和むクラシック音楽を聴きませんか

歴史は社会の動きの連続

歴史は覚えることがたくさんあるから記憶物として中学生や高校生に嫌われ、大学生や社会人は手軽な読み物くらいしか見ないからいい加減な解釈物で知ったつもりになる。学者も生活もあるからそうしたいい加減さを苦虫を噛みながら受け入れいつしかエンターテイメント的な物ばかりを世の中に出してしまう。小説家の妄想が史実としてインパクトを持ち受け入れられて行く。生き残るためには何でもありみたいな昨今のテレビドラマみたいなことは直接関係する人だけではなく、飲食店で醤油よ皿を舐めて元に戻す動画を流す人達と似たり寄ったりでお互いにループしながら批判しつつ報道しアクセスして見る人達のエンターテイメントとして一定数の需要があり、マスコミも反対するとして報道して更なる動画が出る意識の温床になっている。
また、大きく脱線しました。ある意味歴史は毎日の生活の記録の積み重ねで、残った記録や史料が全て事実を記述しているわけではありません。記録する時点での記録者の持つ情報の偏り、記録者の取捨選択、権力者への配慮、裁判に勝つために自分は正しく相手は極悪非道、僧侶は争う相手を呪い宗旨が違う人は悪魔の扱い。立場により正義は変わりお互いの意識を守るために殺し合いになる。人間は虚栄心やエリート意識もあるから、嫉妬もあり目が眩み相手の悪口を権力者に告げ=讒言 排除しようとしたり、そんなことばかりがたくさん記録に残ります。だから、記録や史料は一つのソースだけで判断できない。昔は立派?な文化人は毎日何社もの新聞を読んで思考の偏りを避ける努力をしたらしいですが、歴史史料も例えば未だに真相の見えない本能寺の変みたいなことがほとんど無数にあり、教科書だけ見てもあまり役に立たない。むしろ思考の硬直化で視点が集約されるリスクは沢山あります。例えば、100年後に日本の安倍氏が殺されたことしか残らないでしょう。旧統一教会の関連はあまり記録されず100年後の視点から再評価されたり(笑)して、今の人達の意識は無視されるでしょう。最近の朝ドラの戦争に対する大多数の国民が愚かに軍や政府の宣伝を信じ、主人公や周りの人達だけは立派に反戦意識を持っていたとか、明治維新時の戊辰戦争時の河井継之助がガトリング砲を手にして廃人のように平衡心を失い酔って欧米の武器商人の言うがままに大量殺戮に走ったみたいな描写に時代の変化を感じます。また、15年くらい前に異様に称賛され制作された司馬遼太郎の坂の上の雲のドラマはほとんどNHKの黒歴史扱いに感じます。たったこの程度の時間の流れでも社会意識は大きく変わり、多分30年後は正義の基盤もガラリと変わるでしょう。そうした意識の変化や評価の変化は史料をたくさん見て比べて積み重ねて見えるたくさんの矛盾から再構築する努力から見えてくるものは意外にたくさんあります。記憶物ではなく、昔の人達の叫び、権力者の暴力や嘘を感じたり濾過し考えるのは楽しい作業と思います(笑)。同意する人はほとんどいないことは理解していますが(笑)。