これは、ウォロフ語(セネガルの部族語)で「ちょうだい」という意味。
セネガルに行くとよく耳にする。
すぐに覚えるウォロフ語トップ5に入って来るくらいの単語だろう。
「マイマ!」
彼たちは良く使う。対象物がなんであろうと、いとも簡単に使う。

「マイマ!」
私たちは時にこの言葉に悩まされる。
それはなぜか。
マイマと言われても、あげられないから。あげたくないから。
奮発して買ったジャケット。自分へのご褒美として買ったそこそこ高いネックレス。
どれもあげられない。
でも彼たちは容赦なく言ってくる。
「マイマ!」
この彼たちが言っている「ちょうだい」という意味の「マイマ」だが、私たちが捉えてる「ちょうだい」と少々ニュアンスが違う。
私たちが他人に「ちょうだい」を使う時は、それを分けてもらっても相手に負担の無いものだと判断した物に対して言う。
例えば、大量に入ってるポップコーンや街頭でもらったティッシュなど。
それ以外の物に対して「ちょうだい」とはちょっとハシタナイ。恥ずかしいこと。という感覚がある。
一方、セネガル人の「ちょうだい」はもっとライト。
物乞いでも何でもなく、「それ、欲しいなぁと思わせるほど素敵ですね。」
というニュアンスも含まれる。

しかも、驚くことなかれ、セネガル人は「ちょうだい」ばかり言ってるわけではない。
「ちょうだい」と同じくらいの割合で「あげるよ」も言っている。
それに気がつかないのは、私たちが彼らに「ちょうだい」と言わないからだ。
勇気を出して彼たちに「ちょうだい」と言ってみるといい。
多少例外もあるが、彼たちは躊躇することなく「あげるよ」と答える。
では、実際にそこで物が行き交うかと言ったら、本当にくれる時もあるが、必ずしもそうではない。
「それ素敵ね」「ありがとう」と同じくらい軽いニュアンスなのだ。
本当にあげないことで交友関係が崩れるんではないか、と悩んだりしない。
そこまで重くない。
彼たちの「ちょうだい」は褒め言葉でもあるのだ。
そして、それと同じ数だけの「あげるよ」も言っている。
「ちょうだい」「あげるよ」を抵抗なく使えるのは、分かち合う精神が反映されているからか。
私たちが「ちょうだい。」と簡単に言えないのは「自分は簡単にあげられない。」という心の投影も影響してるかもしれない。
「あげる」に抵抗がなくなれば、「ちょうだい」の抵抗もなくなっていく。
そいう私は、まだまだ「ちょうだい」をうまく使えないが。

言葉には魂がある。
「あげるよ」をたくさん言えるってことはとても素敵ではないか?
物質的な物が特別に豊かではなくても、何かとっても豊かな気分になる。
物が伴ってるかどうかではない。
「ちょうだい」「あげる」と抵抗なく言える環境、あなたと私に隔たりがなく共有できる感じ。
私たちも、まずはお友達どうしで活用してみてはどうだろう。
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