体調が芳しくないため、簡単にポイントだけを書きます。

「お母さまがお父様の娘であるための条件」は、『御父様と洪順愛大母様の「肉体関係」』です。

1.「真のお母様(韓鶴子)誕生秘話(5)」より、

(1)文教祖と洪順愛(大母様)の生まれ故郷は二人とも平安北道定州(家は数キロの距離)

(2)洪順愛の母方(趙元模)の趙氏家門は昔、定州で名の知れた富豪であった

(3)洪順愛の母方の先祖の趙漢俊の話は伝説として定州で知らない者はいないほど有名

(4)洪順愛の母方の先祖の趙漢俊の架けた橋は定州で名所になっている

(5)文教祖は趙漢俊の架けた橋を少年時代毎日自転車で渡っていた

(6)文教祖は定州は行かないところがなかったと証言している→趙漢俊の家(洪順愛の家)にも文教祖は見物に行っている時に洪順愛も見ている可能性あり

上記に背景の上で、

御父様 : 1941年4月1日 「昌慶丸」に乗って日本留学

      1943年10月 日本留学から帰国

お母様の出生日 : 1943年2月10日(陰暦1月6日)

となっていますので、

御父様と洪順愛大母様が、肉体関係を持つのは、不可能ということになってしまいますが、

お母様の出生日が、違う可能性があります。

姜義弘女史(36家庭)の証
『私は一九五五年の後半から一九六二年まで鷺梁津で呉(故呉永春)執事、大母様と共に借家で一つの垣根の中で暮らしました。この期間に大母様と呉執事から北で信仰生活なさった事情についてたくさん聞きました。大母様と呉執事のお二人は、北で再臨主を迎えようという熱烈な信仰集団で血縁以上の姉妹としてお過ごしになりました。北の共産主義の虐政が日増しに極悪になって、この信仰集団にも例外なく迫害が加えられました。このような渦中にあっても、ひたすら再臨主を迎えようという信仰は火のように燃え上がりました。このとき、大母様が懐妊なされました。
 懐妊なさった大母様と食口たちに天の驚くべき啓示がおりました。唯一の望みが再臨主に出会うことだったのですが、天の啓示が、「順愛よ、おまえのおなかの中の赤子は再臨主であられる。貴く心に留めよ」というものでした。それだけではありません。複数の信徒たちにも「順愛のおなかの中の赤子は再臨主であられる。貴く心に留めて精誠を尽くしなさい」という啓示がありました。このような途方もない驚くべき啓示を受けて感謝と喜びと希望で再臨主とすぐにでも会ったような楽しいお祝いの雰囲気でした。待たれる再臨主の誕生日を指折り数えて待ちました。出産予定日になって大母様が再臨主を分娩されて、周囲が皆、希望していたことが現実として迫りました。
そのときのことを、真のお母様のご聖誕日を迎えて回想してみましょう。正に赤子は、この世に来られたことを天地に宣布する声と共に誕生しました。ところが当時、大母様とすべての信徒たちは喜びとともに一方では怪訝に思いました。再臨主と言われたのに男の子ではなく女の子が誕生したのです。このとき、神様は、どれほどもどかしかったことでしょうか。神様は、独り子を送り、貴く思って、信じて仕えて従うようにみ旨をくださったのに、男の子ではなく女の子だったのです。天の隠密な摂理のみ旨が分かりませんでした。』
(2003年発行「真の愛の勝利者」姜義弘女史(36家庭)の証より)

「北の共産主義の虐政が日増しに極悪になって、この信仰集団にも例外なく迫害が加えられました。」という証から、

ちゃぬさんは、

「生まれたのは1945年8月15日終戦後以降の北朝鮮政権下だと述べているのです。1943年は1月6日は終戦前です。おかしな話です。
教会発表のお母様(鶴子夫人)の誕生日の1943年は1月6日は終戦前です。おかしな話です。」

と書かれています。

お母様の出生が、1945年8月15日終戦後以降の北朝鮮政権下であれば、

御父様と洪順愛大母様が、肉体関係を持つ可能性が出てきます。

「私と二月の終わりに出会い、三月の終わりに真のお母様がおなかの中に宿りました。」

という出来事が、単身赴任でいなかった韓承運氏ではなく、御父様の可能性が出てきます。


続く。


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