以前の記事で、「関ヶ原の戦いにおいて小早川秀秋が西軍から東軍に寝返った際、決断が遅れたのは過度の飲酒で肝硬変から発症した肝性脳症による判断力低下の可能性がある」という説を紹介しましたが、白峰旬「徳川家康の『問鉄炮』は真実なのか」(渡邊大門編『戦国史の俗説を覆す』所収)によると、小早川秀秋は関ヶ原の戦いの火蓋が切られると同時に東軍に寝返っていて、そもそも「決断が遅れた」という事実はないということです。秀秋が松尾山上から模様眺めをしていてなかなか動かなかったため、業を煮やした徳川家康が小早川隊目掛けて鉄炮を打ち掛けた(問鉄炮)という、かの有名なクライマックスシーンは、一次史料に基づくものではなく江戸時代に成立した軍記物による全くの作り話なのだそうです。

 

そして、関ヶ原の戦いに参戦した武将の家臣が国元に送った戦況報告の書状や、イエズス会の報告書等の一次史料によると、小早川隊は開戦前に松尾山を下って大谷吉継隊の背後に布陣しており、開戦と同時に背後から大谷隊に襲い掛かり前方から押し寄せた東軍とこれを挟み撃ちにして殲滅したということで、関ヶ原の戦い自体も東軍が一方的に西軍を撃破して短時間で終わったそうです(以上、白峰・前掲)。

 

要するに、「天下分け目の一戦」は実際にはあっけなく終わってしまったわけですが、それでは話として面白くないので、あの有名なエピソードが創作されたということのようです(なんてこった。ドラマチックな話だと思ってたら、文字どおり「ドラマ」だったのかよ。確かに、石橋を叩いて渡るタイプの慎重居士として知られる家康が本当に「問鉄炮」のような危ない橋を渡ったのか?という疑問を抱いて然るべきだったな)。同時に、「問鉄炮」のエピソードは、家康の神がかり的な判断力を讃仰し、「権現様すげー!」と、大いに家康アゲをしてその神格化を図る狙いもあったのでしょう。それにしても、今まで、素人はともかく、専門の学者が揃いも揃って軍記物以外に根拠のない家康の「問鉄炮」を史実として疑わなかったというのはなんだかなぁ(それだけ強く刷り込みがなされていたにしても)。

 

[追記]

今日(11月12日)放映された大河ドラマ『どうする家康』は、「関ヶ原の戦い」の回でした。専らの興味は、この天下分け目の決戦における最大の見せ場ともいうべき小早川秀秋の寝返りのシーンがどのように描かれるのかの一点にあったのですが、「問鉄炮」こそなかったものの、開戦からしばらくの間は、筒井順慶ではないが洞が峠を決め込んで動かず、家康が勝負に出たのを見て決断し、大谷隊に襲い掛かるというものでした。まあ、ドラマとしてはその方が面白い(上記のように、開戦と同時に小早川らが寝返って短時間でケリがついたのでは全然盛り上がらない)のは確かであり、仕方がないでしょう(なぜ「問鉄炮」のエピが採用されなかったのかはわからず想像するほかないが、今回の大河は家康と三成の間にあり得たかもしれない「友情」が大きなテーマの一つだったので、そうした余計な挿話は夾雑物としてカットされたということかな)。それはそれとして、現在では、東西両軍が膠着状態にある中で家康の「問鉄炮」により小早川が裏切りを決断したということはほぼ否定されているという学問の成果について紹介すべく、このような追記を付して旧記事を再投稿する所以です。

 

なお、専門の学者が従来の俗説をそのまま受け入れていた理由は、関ヶ原の戦いが徳川方の勝利に終わったこと、当初は石田方に属していた小早川秀秋が徳川方に寝返ったことは、史実として動かないものである以上、その裏切りがいつ、どのようにして行われたのかということは、話としては面白いものの、些末な事柄(歴史の動向を左右するようなものではない)にすぎないため、学問的な関心の対象にはならなかったのだろうということにしておきます(一応フォローのつもり)。