きづきのマエストロ 宮城アキラ

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宮城アキラ オフィシャルブログ


心理カウンセラー,ヒプノセラピスト,イタ女研究家 宮城アキラ

クライアントが求めるものは十人十色
何に気付く必要があるのかは全く違う

 自分のダメなところに気付く 有能なことに気付く
 自分の醜さに気付く 美しさに気付く
 自分の冷たさに気付く 優しさに気付く
 自分が愛に飢えていることに気付く 愛されていることに気付く
 自分が不幸であることに気付く 幸せであることに気付く 

カウンセリングの本質は「気付くこと」
カウンセラーは、クライアントの気づきのプロセスを促進させる指揮者みたいなものだと思う

個人セッション・講座はこちらをご覧下さい。




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4年に一度の祭典、ワールドカップが開幕し、連日熱戦が繰り広げられています(^_−)−☆

 

今日は日本代表の初戦。

 

コロンビアとの実力差は明らかですが、なにが起きるかわからないのがサッカーなので、それを楽しみに応援したいと思います( ^ω^ )

 

勝ち負けが人の心を動かすスポーツ。

 

前回のブラジル大会では、観客動員数350万人、テレビ視聴者数263億人。

 

サッカーというゲームだけでこれだけの人が動くとは、いつも驚かされます。

 

シンプルなルールのゲーム、そして勝ち負けに心を動かされ、魅了される生き物なんだとあらためて感じます。

 

そういう私もこのサッカーの虜で、テレビに釘付けです(≧∀≦)

 

 

ゲームは楽しい。

 

そこにはルールがあり、勝敗があり、結果があり、その範囲の中でいかにうまく動くかが問われる世界は、生きている実感を感じやすいものです。

 

実際にプレーする選手だけではなく、世界中の人を巻き込んで構成されるサッカーというゲーム。

 

多くの国で、生まれた時からプレーヤーとして参加することが決まっている、マネーゲームという壮大なゲーム。

 

自分自身の存在意義を明確にするために無意識で行われる心理的ゲーム。

 

様々なゲームの中で、そのゲームに参加することが自分で選択できるものは自由に楽しめばいい。

 

だけど、自分の意思とは無関係にそのゲームに参加していて、もう逃れられないゲーム、特に心理的なゲーム。

 

客観的には楽しいとは決して言えないようなルールで成り立ち、ありえない勝敗の判定がなされ、非建設的な結果が生まれます。

 

 自分の持っている才能は使っていけない

 

 楽しんではいけない

 

 正気であってはいけない

 

 本当のことを信じてはいけない

 

などなど、「〜してはいけない」という膨大なルールが存在していて、そのルールに抵触しないことだけが許されている。

 

そして、

 

 痛い目にあったら勝ち 愛されなかったら勝ち ダメ出しされたら勝ち 具合が悪くなったら勝ち・・・

 

 目立ったら負け 評価されたら負け 愛されたら負け 幸せになったら負け・・・

 

みたいな勝敗判定があり、痛い目にあったり、被害者であることが勝者の証明になるというゲーム・・・

 

それは、子供の時に自分で作ったものであることは間違い無いのですが、自分がそんなルールを作ったなんて、これぽっちも思っていないところがこのゲームの面白いところです。

 

決められた絶対的ルールがあり、絶対に負けられない戦いがそこにはあり、非建設的な結果こそが勝利の証明。

 

そんなゲームだれもやりたく無いはずなのに、自分では、絶対にそのプレーヤーから逃れられないと思っていて、そのゲームに乗っかってくれる人を探して生きている。

 

そんな人生いやですね〜

 

でも、そんな自分が作ったルールで生きていて、その戦いの中で絶対に負けられない!と思って生きているのが私たちなのです。

 

例外なくみんなやっている。

 

自分の正しさを証明しようとしたり、自分の正当性を認めてもらおうとする気持ちは誰にでもあるものです。

 

でも、その正しさは、決して証明されるものでもなければ、その正当性は誰も担保してくれません。

 

正しさなんて、「自分が正しいと思っていること」に過ぎないし、自分が納得さえしていれば、正当性なんて必要ないはずです。

 

自分の正しさを振りかざして、自分の正当性を盾に戦いを挑む生き方は疲弊します。

 

しかも、その正しさは自分を幸せにしないし、建設的でもない、主張したい正当性は自分を守ってくれない。

 

そんなゲームをしていたら、傷だらけになってしまいます。

 

逆説的に、疲弊して、傷だらけになることこそが勝者の証というのが、このゲームの魔術的なところなんですけど( ^ω^ )

 

 

あなたは、何を振りかざして、何と、誰と戦っていますか?

 

その正体をしっかりと見極めて、もうそんなゲームのプレーヤーは降りる可能性をみませんか?

 

そんなタイミングがもう来てるのかもしれません(^ ^)


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自己アイデンティティ(自己同一性)とは、自分と他人を区別し、自分が自分であることを実感していること。

 

簡単に言えば、「自分らしさ」とか、「自分であること」ですが、それもわかるようで、実際はよくわからないものです。

 

心理学的に、自己アイデンティティ(自己同一性)は、青年期以降に確立され、発達のプロセスでそれが確立されるか、拡散(失敗)するかが、その後の人生に大きな影響を与えると言われています。

 

最近多い、ネガティブなニュースの奥に潜む要素として、この自己アイデンティティの確立の問題が必ず含まれています。

 

自己アイデンティティが確立されていない状態の個人は、何かをきっかけにとてつもない行動をしてしまう可能性を秘めています。

 

「いつか大それたことやるような気がしてた」、という周囲のイメージがあった人も、「そんなことするような人には見えなかった」人も、どちらも、その確立に問題があったのだと思います。

 

本人の中に「自分」という存在に関して偏った、歪んだ認識・評価が潜んでいる。

 

そう考えると、それは人ごとではなく、もしかしたら自分も発達のプロセスで自己アイデンティティを確立できなかった可能性があるという視点を持つ必要があるのかもしれません。

 

 

自己アイデンティティの確立には、その前のプロセス、乳児期・幼少期に培われる自己愛の成熟が関係しています。

 

自己愛の成熟とは、「自己を肯定的に愛せる状態」。

 

当然自己愛が成熟している人は、他者へも愛を注げるし、共感力も高く柔軟性を持ちます。

 

自己中心的な人や、自己の過大評価、特別感などを強く持つ人は、「自己愛」が強いのではなく、自己愛が未成熟な人です。

 

逆に、自己滅私、他者自己の過小評価、他者の評価に過剰に反応する、自分決められない人も、同じく自己愛の成熟度が低いと言えるでしょう。

 

青年期には、その自己愛の成熟度をベースに、「自分」という存在を実感して行きます。

 

そのプロセスで、ネガティブなものから逃れようとしたり、受け入れようとしたり、ポジティブなものを探そうとしたり、作ろうとしながら「自分」という存在を思い知っていくわけです。

 

その結果として今の自分が存在するわけです。

 

「自分は自分」という当たり前の感覚は、そのようなプロセスで培われた貴重な感覚であり、それがあるからこそ「自分」として存在し得るわけです。

 

 

カウンセリングや心理学の講座などで、自己分析の現場にたくさん立ち会ってきました。

 

そこでは、自己アイデンティティの確立のプロセスと、自己愛が熟成したプロセスをもう一度おさらいするわけですが、そこを客観的に見るのはなかなか難しいものです。

 

それは、これまで確立してきた自己アイデンティティの崩壊を感じさせるからです。

 

自分自身のことを客観的に見ることは、これまでの自分が「自分」として認識してきた領域の外側を見る作業です。

 

それは、ヤバイことですよね( ^ω^ )

 

確立しているはずの自己アイデンティティを壊すなんて必要ないと思うかもしれませんが、その確立された「自分」は本当の自分の一部にすぎません。

 

自分が思いもしなかった「自分」が眠っています。

 

今の自分の自己愛の成熟度は、最高度の成熟度ではありません。

 

まだまだ未熟だし、もっと歳熟させることができる可能性を持っています。

 

どうあっても、もう「自分」から逃げられないし、自分以外の誰かにはなれないということを嫌という程実感したなら、次のステージに進むタイミングなのかもしれません。

 

これまで切り捨ててきた「自分」のかけらを拾い集め、確立してきた「自分」と統合していくプロセス。

 

それは、自分自身の中に眠る宝物を探すような冒険の旅です(^_−)−☆

 


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毛布に巻かれるナナ(^_−)−☆

 

 

日大アメフト部の問題が大きく取り上げられ、反則行為を行なった学生が記者会見までするという異常な状況を呈しています。

 

日本では決してメジャーとは言えない、大学のアメフト、そしてその定期戦での1プレーがこれほど大きく取り上げられるというのも、ネット社会ならではなのかもしれないですね。

 

やはり動画の影響は大きい。

 

その場面が直接映し出される説得力は、言葉のそれとは比べ物になりません。

 

今回の一連の出来事も、もし、この動画がなかったら世間で騒がれることもなかったかもしれません。

 

それがいいかどうかは別にして、隠し事ができない世の中です。

 

今回の件、スポーツの世界に限らず、大事のはずの出来事が闇に葬り去られてきたことなんていっぱいあったと思います。

 

それが隠されてきたことの方が不思議なことで、こうやって明らかになることの方が自然なんだと私は思います。

 

 結果のためなら手段を選ばず、どんなことをしても結果さえ良ければ許される

 

というような風潮は、いつの時代も存在していて、それを正当化する詭弁や強い力は、ひとりの人間の力では抗えないように感じるものです。

 

そして、その力の中に身を置くことを決めた人にとっては、正当化された詭弁が真実で、結果こそが正義になっていることでしょう。

 

今回の事件でも、日大側にはその正義を守る、自分たちが真実であるという立ち位置から動けないでいる姿が見えてきます。

 

そして、その信念の正当化のために、ひとりの学生を犠牲にしていることにさえ気付けないという不幸が明らかになってきます。

 

教育という場をつくることが目的の組織が、ひとりの人を貶めるという本末転倒なことがまかり通っている組織には未来はないでしょう。

 

謝罪という行為だけがただ行われ、どうやったらことが収集するのか、被害を最低限に防げるのかしか考えていない人たちに、物事の本質を見る余裕はもうないのでしょう。

 

こころの奥底では、いまだに「悪い」と思っていない。うまくやれなかった、やり方を失敗した、くらいの感覚しか持ち合わせていないんだと思います。

 

反省の意も、罪悪感も持ち合わせていない人の謝罪行為ほど空空しいものはなく、響いてくるのは「心外です!」という本音だけ。

 

 

 人間は弱いものだから、長いものに巻かれるのはしょうがない?

 

 人間は弱いんだから力を持たなければ生きていけない?

 

そんなところで人の弱さを主張してほしくない。

 

弱いこそからこそ、自らの強さを信じようとするのが人間だし、弱いからこそ誰かの気持ちに敏感に共感できるのが人間だし、弱いからこそ優しくなれるのが人間なんだと信じたい。

 

自分を信じられないから外側の力に魅了される、共感できないから孤独になっていく、優しくなれないから心が荒んでいく。

 

結果は大事、成果も欲しい、願望だって達成したい。

 

そのためにどんな方法を取ったって、何をやったっていい。

 

だけど、自分自身が破滅に向かうような生き方は誰も幸せにしない。

 

必要なのは、今の自分の姿をしっかり見つめて想像力を働かせることなんだと思います。

 

 

昨日のあのハードな場面での記者会見に臨んだ、加害者側の学生。

 

大人が子供を守れないことを嘆く声もたくさん聞こえます。

 

でも私には、彼が自己責任で生きている大人で、逃げ回っているさまざまな関係者たちの方が厨二病にかかった子供のように見えて仕方ありません。

 

彼は若くして大きな負のエネルギーを背負ってしまいました。

 

でも、その上で強く生きようと決めたひとりの男としての人生を踏み出したんだと思います。

 

これからも大変なことがたくさんあるでしょう。

 

それでも、この出来事を正当化することに逃げず、自己責任で生きることを決めたことがこれからの人生で大きな財産になることと思います。

 

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