金魚飼育に関して後世に残してはならない物
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どんぶり金魚、その背景。
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どんぶり金魚(有害図書)、その背景。 2
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アカデミックな立場の人間が観賞魚、特に金魚を手荒く扱うことを容認する主な理由の一つが、
「魚には痛覚が無い」という前時代の学説に準拠することは前の項で述べさせていただいた。
日本人は世界の下り物を喜ぶ風潮があるので、世界的に認められた論説には弱いことは言うまでもない。
しかしながら、様々な計測機器や手段を備えた研究室がありながら、何故2003年まで「魚の痛覚があること」を大声で言うことがはばかられたのか?欧米の学者が何故口ごもりつつそのことについて言及することを避け続けてきたのか?
この問題を考えること無しに、欧米、特に西側学者の論説をそのまま受け止めることは出来かねると私は考える。そして、彼らの姿勢を疑うことなく盲従した、日本の水産学者達の落ち度を見逃すことは出来ない。

1)四旬節の主食である魚の文化
西方教会(主にカトリック/プロテスタント)の領域では、復活祭の前の40日間を四旬節(レント)と呼び、食事を一日一回にし、肉類を口にしない地域ぐるみの習慣がある。肉類の定義は、穢れのあるものという意味であり、基準は旧約聖書中のアダムとイブの裏切り物語に拠る。彼らが神を裏切った時に【地上にあったもの全て】が呪われ、穢れたという解釈なので、その時に水中にあった魚は呪いを受けなかったと教会は解釈し、庶民に四旬節期間中は魚だけを蛋白源として摂取するように呼びかけた。
ヨーロッパ文明中の魚料理には、四旬節期間中の為に開発されたものも多い。
魚が他の生き物と異なる「聖なる」点として、これは教会お抱えの学者が積み上げた科学的根拠の無い事実なのだが、魚は放血せず食することが出来る、とか、痛覚が無いので殺しても罪を作らない、とか、さまざまな都市伝説風の事柄が提唱されはじめた。
全て宗教に拠り、科学的な根拠は無いことであり、これは生まれた瞬間にキリスト教の洗礼を受けた者の「定説」として西側水産学者の中には固く根付いてしまっている偏見である。

2)人道的スポーツフィッシングという幻想
欧米の貴族社会の中では、放血を伴う血生臭い狩猟よりもスポーツフィッシングの方が人道的であり紳士的であるという誤解が長く続いていた。それらは日本にも明治維新&文明開化と共に持ち込まれ、今現在も一つのレジャーとしてジャンルを確立している。
四旬節の項でも述べたが、魚が放血しない聖なる生き物ということはまったくの誤解であり、切れば血の出る生き物である。これは魚を殺したことがある者、捌いたことがある者にはただちに理解が出来るシンプルな事実である。
流血を避けることに人道を見出したのか、キャッチ&リリースが定着し、マナー&作法は洗練され、現在に至るのだが、基本としてはキリスト教的な精神性を元にしたスポーツであることは否定できない。
※余談だが、私も釣りを趣味としているものである。しかし、キャッチ&リリースという概念は無い。私は食べられる魚を釣り、それを間違いなく食べる(自らの血肉にする)。ごくたまに水槽に飼いそれを放すということもするが(絶滅危惧種等)、基本的には全て食するために釣りをしている。そういう意味では私の釣りはスポーツではなく狩猟になり、縄文人がやっていた採取生活の一環と変わらないことであると自負している。

この2点のみを取り上げても、魚を大量に殺し、虐げることを容認したものが西方キリスト教教会であったことが理解できる。
およそ地上にある全ての生き物に痛覚が無い訳はないのに、何故魚だけが特殊視され、欧米で研究が及び腰であったのか?
どんぶり金魚の飼い方の話のときに私はよく「宗教」という言葉を使うのだが、魚の痛覚研究に関すること全て、このことが本物の宗教問題に基いた偏見であったということは、決して忘れるべきではない。(他の宗教的偏見として、豚肉は不潔で絶対生食できない等、これらは今の日本でも「常識」として語られることである)宗教的バイアスは非常に根が深く、有名な話では国家予算を投入してノアの箱舟を探したり、聖書に描かれた場所を特定する学問すらある。一見身なり良く紳士的な方々がそういったことに血道をあげてるのであるからして(自主規制)。
更に余談であるが、これが「西方教会」の常識であり「東方教会(ギリシャ/ロシア正教)」で主に取り沙汰されることではないということも、非常に興味深い。世界の東西対立の始まりがどこであったのか?考えるとあるいは原点はここであったのかもしれないと思うこともしばしばである。

欧米の学問は日本から見れば進んだことが多かったかもしれないが、
自分たちがいかにキリスト教的なバイアスに縛られ(日本人学者さん方の中にどれほどキリスト教徒が居たかは知りませんが)訳も無く、強いて言えば信仰すら無いのに従わされていたことを自覚することからしか、公正な研究も、その成果も得られないと、私は強く思う。

更に日本に限れば、「政治をする学者」の存在がそれに拍車をかけたことが見逃せない事実となる。

国費が投入されるようなジャンルであればともかくとして、マイナージャンルに於いては「学閥」が全てとなり、主流から外れた流れにある者は意見を述べられない空気が強く支配する。
学生に於いては、「こんなことを書いたら学校に残れない」や「○○先生はまだご存命なので・・・」「親御さんに連絡して・・・・」等、かなり直線的な圧迫を受ける。
教授に至っても、予算のカット等現実的な圧迫と、「上の」先生からの強いご指導が入る。
私も何回も「君ぃ、学校に残れないよ」「親御さん(略」等、耳にタコであった。
ここまでならば狭い世界の常識なのだが、更に悪いことに「上の先生」が残したものを否定してはいけない風潮が極めて強い。日本の場合東大を機軸に物事が判断される傾向があり、明らかに間違えていることでも指摘してはいけないことになっている。(例:前期旧石器時代捏造事件等)先人が誤った場合、明らかにおかしいことでも後に続く者が修正してはいけない非常に恐ろしい世界が学閥である。(例:芹沢長介先生)
当然修正ができないので誤った方向が許した研究のみが喜ばれ、真実は捻じ曲がりゴールは遠くなる。最終的にはゴールに到達しては「いけない」と・・・。
世界的に見て自分の学閥の先達が誤っていることが常識となった場合、知識の更新もそこで停滞する。
ここが大問題で、2016年になろうとしている現代でも、日本の学者は魚の痛覚を「無い」と大声で言ってはばからない。当然学生もそのように教えられ、理解し、民間伝承のようにその学閥流の知識が累代継承されていくのである。
ドラゴンが空を飛び、魔女が跋扈する中世キリスト教社会を我々は笑えないのである。

ここまでが「政治をする学者」の前提なのだが、更に学閥の枠だけにとどまらずに政治の影響は及ぶ。

魚類の痛覚問題に至った場合、それは、
・漁師さんの気持ち
・板前さんの気持ち
・釣具メーカーの気持ち
・その他思いつく限り全て
を先取りし、現実がこうなのだから、そんなことを今更言って、彼らが怒ったらどうするの?漁師さんの協力なくして水産学は成り立たないんだよ!というわけのわからない配慮と感情が支配し、本来の学者が行う学問よりも、周囲の状況への配慮が優先し、真実がここでも捻じ曲げられる。
特徴的なこととして、そう言う先生方の殆どが、実際に漁師さんなり板前さんなりに話を聞いたわけではない。自分たちへのバッシングを恐れるあまりの妄想の産物であり、簡単に言えば世論にびびっているだけである。
学者がこういった政治に夢中になればなるほど真実は霧散し、世の中は捻じ曲がる方向に暴走を開始する。

その産物の一つがどんぶり金魚の飼い方。である。

これが虐待であるか否か?の焦点は、魚に痛覚があるか否か?という問題に繋がる。
結局は自分たち自身が知識の更新を(故意に)怠り、キリスト教バイアスに準拠した伝説並みの論説にすがっていた、このことを著者サイドの人間が自覚しない限り、これは解決することは無い。
この著者の先生は、学生たちに魚に痛覚は無いということを大前提として教鞭をとり、この本を書かれた筈である。
実際、今の学生さん方が先生に魚の痛覚の有無を聞けば
「今は、あることになってるみたいだね・・・」と、はぐらかされたり、逆に後ろから刺すようなまねをされたと話しを聞いている。
なんてことはない、自分たちが知識の更新を怠り、学閥ありきの考えで政治的に教鞭を執っていたが為に、真実をつきつけられたとき困り果ててしまうのだ。
仮にこの先生方が痛覚の存在を以前から認識していたならば、またたちの悪い話しになる。
知っていながら、政治的な配慮や世論を恐れ、最新の知識を学生に教えないのだから、これまた困ったものである。
サカナクンにしても然りである。
最近の親御さんは、高い授業料を払っていても案外おとなしいのだろうか?と、私は心底疑問に思う。私の時代には少しおかしな授業内容があると、すぐに教務課に苦情が来て、問題になることが多かったのだが、今の親御さんは授業料をはした金だと思っているのか?どんぶり金魚、その背景1・2で指摘したこの有害図書を元学長が出したということについて、KY大学に何も言わないのか?本当に不思議である。
先生にいくら配慮をしても特別優秀な学生以外、今も昔も水産系大学卒業生に来るメインの求人はスーパーの鮮魚売り場の主任であるのに・・・

岡本元学長に並ぶ共著者として川田氏の名前があげられ、表に出ている分批判を一身に受けているように感じられるのだが、私は川田氏はこの件では被害者だと考える。
どちらが先にこれを書こうと言ったのかは知らないが、
水産系第一級の国立大、元学長ともあろう方が言うことを疑えというほうが酷である。
(因みに私たちはコレ系の方々の意見や論文は必ず検証し、はなっからハテナマークで挑みます。バイアスをはずして論文を読まなければ、人類は火星に定着してしまいます)
小さな金魚の世界の住人では、川田氏がいくら著名であれ、抗うことは出来ないものと推測される。
事実、このどんぶり金魚の飼い方を多方面に宣伝して回ったのは、KY大元学長の方であったと、様々な資料より判断ができる。
川田氏の巻き込みも含め、金魚という存在を徹底的にしゃぶりつくすだけのようなこの本は、許されざるものであると繰り返しではあるが思わずにはいられない。
追記になるが、サカナクンにしたってある意味被害者である。彼は魚類学者ではなく、魚類分類学者である。分類学者というのは平時には目立たないが、現場で即座に判断が出来るため、クニマス?の再発見のような場面では非常に重要な役割を果たすものである。※クニマスの再発見にしても私たちは懐疑的である。タイミングが良すぎる上に、色々なこじつけがある。
魚類分類学者とは、魚を本にたとえるならば、彼は本の内容を論ずる人間ではなく、図書館の司書の能力が本来の仕事になるのだ。大学の宣伝の為にサカナクンに魚類分類学の分を越えた発言を公の場で繰り返えさせる大学の姿勢は疑うべきものである。

金魚の世界は趣味なので、何をどう飼おうがそれは責められるものではないという意見もあるのだが、2の項でも示したとおり、推奨されることにより騙され、それを実践し、金魚が死に、末端で嫌な思いをするのは騙された側の一飼育者であるということは忘れてはならない。
「推奨をしている」そのこと自体が罪だということを、くれぐれも支持者には御自覚戴きたいと、それは重ねて思う次第であります。

この項で言いたいのは「学者は政治をするな」ということである。
学者は学問を究めることに専念するべきで、自らのおかれた立場に腐心しすぎると全ておかしくなるのだ。政治は政治家がやればよいことで、魚の痛覚の点に絞っていえば、もしそれで漁師さん方が協力してくれなくなれば、それこそ管轄省庁の助けを求めるべきことであり、一個人が思い悩むことではない。ここは、必ず分けて考える必要がある。
私は良く「東側科学」を推奨するのだが、東側科学の最良の部分は先達の首を掻き切った後輩が評価される部分にあり、すなわち、学者は学者の仕事だけをし、研究だけを極め、各々の成果を競うように磨きぬくので、格段に物事が飛躍する場合が多いということである。
政治をする学者が居れば通報&調査により即座に予算が止まるシステムも非常に評価している。
逆に学者間の政治を遮断しきらなければ、スホーイは現在我々の目の前に現れることはなかったであろうと考える。ボーイング系/エアバス系の学者が強く政治をする航空力学界では、スホーイはまかり間違えても空を飛ぶことはないのだろうから。
話が逸れたが、実際金魚だけにとどまって見ても、西側科学では解明できなかった事柄が、東側科学の助けを借りるといとも簡単に解決してしまったような事象がこの数年間幾つも発生している。
西側科学が劣っているということではなく、バイアスを抜ききって双方のバランスをとって物事を考えた場合、今までに見たことが無いようなディメンジョンに至る場合もあると、日本の学者先生達には強く申し上げておきたい。

非常に長く広範囲な文章になり、いつもにも増してわかりにくくなったので、要点をまとめます。
1)魚に痛覚がないのはおそらくキリスト教バイアス。
2)日本人は欧米の下り物が好き。
3)学者が政治をするな。
4)川田氏はおそらく主犯格ではない。たぶん被害者。
5)最近の親御さんは物静かで驚いた
6)研究室に残らず、日本の学者にならず、幸せです!
7)私たちは、社会不適合者であり、人格障害者である可能性が多分にある。

以上。

P.S
色々ご意見あると思いますので、また続けると思います。


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