イタル・アメリカンスーパーカーの功績 | モータージャーナリスト・中村コージンのネタ帳

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イタリアンカロッツェリアによる華麗なボディワークと、アメリカンマッスルV8エンジンの融合の産物。それがイタル・アメリカンスーパーカーでしょう。真っ先に思い出されるのは多分、デトマソ・パンテーラでしょうかね。スーパーカーとしては当時かなりお安かったことも、ヒットの一因でしょう。しかし、このイタル・アメリカンスーパーカーの大きな功績は、僕は他にもあると思っています。それがラグジャリースーパーカーの市場を切り開いたこと、それにATを市場に持ち込んだことです。4シーターのスーパーカーはほとんど存在しませんでした。その端緒はフェラーリ250GTE。1960年に登場しています。その後、マセラティがクワトロポルテを63年に投入し、この時初めてスーパーカーとオートマチックトランスミッションというコンビが完成しました。ランボルギーニは1968年のエスパーダを投入し、4シータースーパーカーセグメントの仲間入りを果たします。フェラーリの250GTEは、当時としてはフェラーリに大きな利益をもたらしました。同時に生産台数も跳ね上げたようです。以来、フェラーリにとっても2+2の存在は無視できないものとして、今日に至るのはご存知の通りです。ただ、ATは採用していません。ここに紹介するのはイソ・リボルタ・レーレというモデル。↓

典型的なイタル・アメリカンモデルで、カロッツェリア・ベルトーネのガンディーニがデザインしたボディに、初めのうちはシボレーのスモールブロックV8、後にフォードのクリーブランドV8を搭載したモデルです。デビューは1968年。このクルマが展示場にやってきたのは1973年と記憶します。てっきりシボレーエンジンが来るかと思いきや、フォードだったことで、当時会社内ではそんなのあるんだ!という話になりました。トランスミッションも3速ATです。ここで何が言いたいかというと、イタル・アメリカンの4シータースーパーカーのほとんどは、マニュアルミッションと並行してオートマチックが皆用意されていたということ。デトマソ・ドービルしかり、ロンシャンしかり、イソはフィディアしかりでした。これに対し、2+2の重要性を知っていたはずのフェラーリがATを採用するのは、365GT2+2の後継車、400iから。もっともマセラティは初代のクワトロポルテからボルグワーナー製を採用していましたから、先見の明有りでした。

比較的早くに売れてしまったためか、このクルマは数回しか乗りませんでした。

週末になると、ご覧のように多くのお客さんが見に来ます。やはり日本もATのスーパーカーには当時から興味があったようです。それにしてもこのカッコ、前から見るとランボルギーニ・ハラマにそっくりですね。ドイツでは車名をヤラマと言っていましたし、ジャラマということもあったようです。まあどちらもガンディーニですし。それにサイドビューもハラマとエスパーダの中間的印象でした。

ナンバーを取得するためにフェンダーミラーを付けていますが、粋じゃないですね。いずれにしてもATを装備できたのは、やはりアメリカンV8を搭載していたから簡単だったのだと思います。パンテーラのようなスーパースポーツはともかく、この種の4シータークーペはAT…ということを、イタル・アメリカンスーパーカーが教えてくれたような気がします。