七つの大罪 | Eye of the God ~神の眼~

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現代における預言の言葉。黙示。
現代の常識、価値観では幸せになれない人たちへ。
新時代に合うものの考え方を紹介していきます。
あまりにも常識と違うので、戸惑われることでしょう。
でも、キリストはかつてこう言いました。
『耳のあるものは聞くがよい』。

 

 

 

 ユニークなデザインのTシャツを作ることで定評のある工房が販売する、あるTシャツについての話題がツイッター上でバズっている。
『七つの大罪』という言葉を真ん中にして、その周囲に「マンガ」「お菓子」「カップめん」「スマホ」「猫」「お布団」「ゲーム」のかわいいイラストが輪のように描かれている。それを見た人たちからは「まったく抗える気がしない」「5つまでは犯したことがある」「余裕で大罪全部クリア」「今日の午前中だけで半分も……」というリプ(罪の告白?)が寄せられていた。
 ちなみに筆者は、住んでいるところの都合で猫を飼えないので、それ以外の大罪は常時犯している。


 七つの大罪とは、そもそもキリスト教関係のもので、「傲慢」「強欲」「嫉妬」「憤怒」「色欲」「暴食」「怠惰」の七つを指す。意外なことに、キリスト教関係の概念のはずだが聖書の中で直接言及はされていない。4世紀のエジプトの修道士が言い出した概念らしい。筆者も曲がりなりにも聖書を読みこんだ人間だったので、七つの大罪って言われるけどそれらしいドンピシャな記述はないなぁ、とは思っていた。
 ここで忘れてはならないのは、全部が全部そうなのではないが—


●宗教で言われるようなことは、人として本当に大事という動機で言われているよりも、一見分からないようにはしているが国家(権力)が人民を統制するのに都合がいい内容になっている。


 七つの大罪も、それ自体が純度100%で悪いものなど、ひとつもない。



①傲慢……よくはないとされるが、ある程度ないと自信をもった行動が取れない
②強欲……これも発揮の仕方。どうしても成し遂げたい、プラスになる方向性での成功を得たいなどの強い願望はプラスとなる。
③嫉妬……これがあることで、私たちが歌謡曲や小説・ドラマなどで愛でる「愛」が認識可能。逆に程度問題だがないと困るもの。
④憤怒……走れメロスではないが、理不尽なことに関してあってもよい
⑤色欲……ないと世界に子どもが増えないゾ
⑥暴食……庶民がバイキングレストランに行って、払った金額の元を取ろうとして食べすぎがちになるのを防げるだろうか?(いや、防げない)
⑦怠惰……忙しすぎる現代人は、時としてこれに身をゆだねることをゆるせないと鬱になるぞ?



 すべては、ただの程度問題である。
 最初の、笑い話としてのTシャツの「七つの大罪」だって、ひとつひとつは問題どころかむしろ「必要」なもので、ただ度が過ぎた時に問題というだけのことである。こういう、そのものが問題ではなくただ使う側が極端に走るケースのみで問題となることを、「大罪」とまで呼ぶのはおかしい。


 何度も言ってきたが、イエス・キリストとキリスト教は別物である。
 たとえて言うなら、今の平成仮面ライダー作品のクレジットで「原作 石ノ森章太郎」と出るようなものである。彼の死後大幅に時間がたったあとの作品に彼が関わってるわけはない。ただ、「石ノ森先生のスピリットを継いでますよー!」ということをアピールしたいのだ。そこを守り、そこから外れてはいない、と。
 でも申し訳ないが、やっぱり石ノ森先生そのものではない。
 キリスト教は、恣意的にイエスの言葉を曲げてきた。大昔、今のような情報化社会でもなく、文字の読み書きができる人も少なかった(上流階級のみ)ため、圧倒的大多数の庶民が比較・検証できないのをいいことに「教会の都合の良いように調整してきた」。一般の人間にも聖書の内容が明らかになったのが、ルターの宗教改革でのこと。実に長い間、聖職者にしか聖書は読めなかった。皆、宗教権力側の言葉を一方的に信じ耳を傾けるしかなかった。


 筆者は元クリスチャンなので(しかもコテコテに固い教派にいたので)、そこでの罪観に縛られ、よく自分のしたことや抱いた思い(特に色欲)を悔い、自分をいじめたものだ。今では、他人を傷つけない・迷惑をかけない範囲でレッツ・エンジョイ・色欲! である。
 真面目な人ほど、宗教が提供するような縛りを信じ、進んでその縛りに身を投じる。ただ本人は気付かないが、そこに心からの喜びも開放もない。
 罪を犯せというのではなく、本当に大事にすべきは(優先すべきは)何か? ということを、宗教や権威のお仕着せではなく「自分の頭で考えられる」ことだ。宗教に属していると、その辺を全部決めてくれるので楽ではあるが、それを絶対としたときに正味の自分と一致しない部分で苦しむことになる。
 苦しまない人というのは、それはそれこれはこれと「割り切れる」人である。でも、それができて矛盾に不感症になってまで信者を長く続けることにどれほどの価値があるというのか。


 だから、七つの大罪などどうでもいい。
 そんなもの無視でいい。ただ、ある一線を越えると他人の迷惑になったり犯罪行為に抵触したりする時に、自制して立ち止まれさえすれば、すべては方向性と程度問題なので、何ら戒めとして深く気にしなくていい。