「私の8月15日(16)戦い済んで日が暮れて 共産主義の台頭」の話(316号2016年05月号) | 仙台市青葉区八幡2丁目・小田眼科ニュース

仙台市青葉区八幡2丁目・小田眼科ニュース

小田眼科より、毎月発行しているニュースを載せています。

小田眼科ニュース医心伝信
第316号2016年05月号「私の8月15日(16)戦い済んで日が暮れて 共産主義の台頭」の話

   風香る5月、ゴールデンウイークの日々の天候は思わしくありませんが、お元気でおいでのことと存じます。「私の8月15日」シリーズ中々終わりません。しばらくおつきあいをお願いします。

   今月は「私の8月15日(16)戦い済んで日が暮れて 共産主義の台頭」の話です。

   東京裁判の結果、東條英機、板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、広田弘毅、松井石根、武藤章ら7人のA級戦犯に死刑が宣告され、昭和23(1948)年12月23日(当時は皇太子であった現天皇陛下の誕生日)に刑が執行されました。その翌日、岸信介を含む19人のA級戦犯容疑者は全員釈放されました。

   刑が執行される前、東條英機は遺言として「この戦争は自衛戦であり、国際法には違反していない。敗戦については総理大臣であった私の責任だ。しかし、この戦争が国際犯罪であると訴えられ、敗戦国の個人が犯罪者、条約違反者として糾弾されるとは考えたこともなかった」と裁判の不当性を指摘しました。これはこの裁判を行い、傍聴し、聞き知ったすべての人々の共通の思いでした。

 東京裁判で死刑になった7人のA級戦犯は、戦争の共同謀議と捕虜虐待の監督不行き届きを問われた人たちだけでした。この人たちはすべて東京でそれぞれの役目を果たしていました。広田弘毅は外務大臣として、事件の信憑性そのものが疑われる「南京大虐殺」を阻止しなかったこと、木村兵太郎はビルマ戦役で、板垣征四郎は満州とマレーで、土肥原賢二はシンガポールで、武藤章はフィリピンで捕虜虐待を阻止しなかったこと、東條英機は総理大臣として幕僚を取り締まらなかったことの罪を問われました。

 共同謀議については、毎年のように内閣の顔ぶれが変わった当時の日本議会のありようを知りますと、お門違いの「なんくせ」という感じがします。

 戦前、日本が中国を始め朝鮮半島への共産党進出を防ぐ防波堤としての役目をはたしていた事は国際的に認められ、日本が旧満州の統治に力を貸すことは世界的な了解事項でした。中国の蒋介石にとって、日本は自分の権力を強め、中国の皇帝になるという野心を遂げるためにアメリカの力を借りる時間稼ぎに利用するものでしかありませんでした。第二次世界大戦後、ソ連の援助を受けた毛沢東の軍が、蒋介石を中国から追い出し、中国は共産党支配国になり、朝鮮半島も南北の分断国家となり、北朝鮮は共産党支配国になりました。

 戦い済んで日が暮れて、アメリカは共産党の台頭という誤算に直面しました。昭和25(1950)年、ソ連の後押しを得て北朝鮮が国境を越えて大韓民国に攻め入る事態になって、アメリカは日本が果たしていた役割、日本の主張が正しかったと初めて認識しました。その結果が、1月号で紹介したマッカーサーの証言「アメリカが過去100年に東アジアで犯した最大の政治的過ちは、共産主義が中国に勢力を増大して行くのを黙過してしまったことである」です。日支事変で、のらりくらりと戦争を長引かせていた蒋介石がこの結末を予想できたら、蒋介石の行動は変わっていたかも知れません。

 戦後、満州国皇帝の愛新覚羅溥儀は日本による保護を希望しましたが、ソ連に拉致され強制収容所に収監されました。東京裁判で証言台に立たされた溥儀はすべての罪を日本に押しつけました。

 満洲国は建国以降、日本、特に関東軍の強い影響下にありました。当時の国際連盟加盟国の多くは満洲地域は法的には中国の主権下にあるべきとし、このことが日本が国際連盟から脱退する主要な原因となりましたが、その後、ドイツ、イタリア、タイ、スペインなどの中立国は満洲国を承認し、ソ連も満洲国と相互に領事館設置を承認するなど、多くの国と国交が結ばれ、独立国として承認されました。共産党に対する防波堤となることが期待されたのでした。  第二次世界大戦末期にソ連は満洲に侵攻し、満洲国は滅亡しました。その後の中国における毛沢東の台頭、紅衛兵、文化大革命等は記憶に新しいことです。                    
小田眼科医院理事長 小田泰子
Produced by *J.O.Y.