第1章 トンネルの向こう――雪と女のはじまり

物語は、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という有名な一文から始まる。
列車に乗っているのは、東京から旅してきた男――島村
彼は資産家の息子で、都会では働く必要もなく、
いわば“世の中の現実から少し浮いたような男”だった。

この旅の目的は、ただの観光でも、仕事でもない。
彼は以前、この雪深い地方で出会った芸者――駒子(こまこ)に会うために来ていたのだ。
島村の心の奥には、都会にはない「生の美しさ」「人間の匂い」を求める感情があった。

列車の中にはもう一人、若い女(葉子)が乗っている。
彼女は看病疲れで眠りこけており、
隣の席には病人らしい男が横たわっていた。
葉子は、その男を必死に世話している。
その献身的な姿を見つめながら、島村は“人の命”の温度を感じる。
しかしその感情は、どこか現実味のない「観察者のまなざし」だった。

夜になると列車の窓ガラスに葉子の顔が映り、
その背後には雪の夜景が重なる。
車内の灯りが反射して、
彼にはまるで“雪の中に浮かぶ幻のような女”が見えた。

「鏡の中にいるような幻想の女」

それが、島村の“雪国の世界”への最初の入口だった。

やがて列車が雪国の駅に着く。
冷たい空気と、白一色の世界。
島村は宿の者に迎えられ、
長い坂道を上って温泉宿へ向かう。
その途中で、彼の胸の中には
「この雪の中で人はどう生きるのか」という漠然とした問いが浮かぶ。

宿に着いた夜。
静まり返る湯の音の中、
彼はひとりで窓を開け、
真っ白な雪の闇を眺めながら思う。

「この地の人々は、雪に生かされ、雪に閉ざされている。」

そこに、突然声がした。
――「島村さん?」

その声の主こそ、駒子だった。
美しいが、どこか激しさを秘めた女。
彼女は島村を見るなり笑い、
「また来てくれたのね」と言う。
その笑顔には、喜びと不安が混じっていた。

駒子は芸者として生きており、
日々の暮らしは決して楽ではない。
だが、彼女の中には“生の真っ直ぐさ”があった。
それが、都会で退屈していた島村を惹きつけてやまない。

この夜、二人は再会を祝して酒を酌み交わす。
駒子は涙ぐみながら、
「あなたが来るのを、どんなに待っていたか」と語る。
島村はそれを聞きながらも、
どこか“遠くからその感情を眺めている”ような冷たさを持っていた。

雪はしんしんと降り続ける。
障子の向こうで、湯の湯気が淡く揺れ、
二人の影が溶けてゆく。

この章は、「現実と幻想の境界」を描く導入。
都会の男・島村と、雪国の女・駒子。
二人の出会いは恋の再燃であると同時に、
“都会と田舎”“夢と現実”“観察と情熱”という、
物語全体を貫く対立の始まりだった。

そして、島村はまだ知らない。
この再会が、雪のように静かで、残酷な愛の結末へ向かう
最初の一歩になることを――。

 

第2章 駒子の涙――雪に燃える女

翌朝、島村は窓の外の雪景色に見とれながら目を覚ます。
音が消えたような白銀の世界。
まるで現実ではなく、夢の中にいるようだった。

そこに、宿の廊下を走る足音。
ふと振り向くと、襖の向こうに駒子が立っていた。
湯上がりの顔は火照って赤く、
白い襦袢に雪明かりが透けて見える。
その姿は、まるで雪の中の炎のようだった。

「昨日はよく眠れました?」
駒子の声は明るく、どこか無理に笑っているようでもあった。
島村が「ええ、よく眠れました」と答えると、
駒子はすっと表情を曇らせる。
「あなたって、いつもそんな調子ね。」

彼女は笑いながらも、
その笑いの奥には“寂しさ”が滲んでいる。
芸者としての彼女は、
男に優しく、愛らしく、強く見せることが仕事だった。
しかし島村に対してだけは、
どうしても“女”としての弱さが出てしまう。

島村はそんな駒子を見て、
心のどこかで「美しい」と感じながらも、
その美しさを“観察”している自分に気づく。

「駒子は、雪の中の生きた芸術だった。」

彼にとって彼女は、愛する相手というより、
“雪国という世界を象徴する存在”だった。

その日、二人は温泉町を歩く。
雪の壁のような道を進み、
駒子は慣れた足取りで雪を踏みしめる。
町の人々は雪下ろしに忙しく、
白い息が空に舞っていた。

道の途中で、駒子は立ち止まり、
遠くの小屋を指差す。
「そこに、病気の男の人がいるの。
 葉子っていう娘が、ずっと看病してる。」

葉子――それは、あの列車で島村が見かけた娘だった。
島村は驚き、そして妙な運命を感じる。
「君はその子を知ってるのか。」
「ええ。あの子は健気なの。
 でも、あの人が死んだら、きっとあの子も壊れちゃう。」

駒子はそう言いながら、
まるで自分のことを語るように、唇を噛んだ。

夜、二人は宿で再び酒を飲む。
駒子は酔って、島村の膝に顔をうずめ、
「あなたが帰ったあと、どれだけ寂しかったか」と泣き出す。
その涙は、作り物ではなく、
“生の痛み”そのものだった。

島村は、その泣き顔に見とれながらも、
抱きしめることができない。
彼の中で、駒子は「人間」ではなく「美」になっていた。
その冷たさに気づかないまま、
彼は駒子を“愛しているふり”で慰める。

「私はあなたの中で、どんなふうに生きてるの?」
「……雪のように。」

その答えに、駒子はかすかに笑い、
「じゃあ、すぐに溶けちゃうのね」とつぶやいた。

その夜、雪は激しく降り始める。
宿の外は真っ白な闇に包まれ、
部屋の中の灯が二人の影をぼんやりと揺らす。

島村はその光景を見ながら、
心のどこかで感じていた。
この美しさは、壊れるために存在している。

第2章は、「雪国の女・駒子の情熱と孤独」を描く。
彼女は愛することでしか生を確かめられず、
島村はその愛を“美学”としてしか見られない。
二人の心は近づいているようで、
実際には雪の壁ほどの距離があった。

――このときすでに、
雪の白さの中で、二人の恋の終わりが静かに始まっていた。

 

第3章 葉子の影――もうひとつの雪の光

数日が過ぎた。
島村は温泉宿での退屈を、
駒子と過ごす時間と、
ぼんやりとした読書とで埋めていた。

駒子は相変わらず明るく、
笑って、泣いて、突然怒る。
まるで雪のように気まぐれで、
その不安定さが島村を惹きつけていた。

だが、ある夜――
宿の玄関に、葉子が立っていた。
あの列車の中で出会った娘だ。
彼女は駒子を訪ねて来たという。

「先生が……もう長くありません。」
葉子の声は凍えるように冷たく、
けれど、涙をこらえる強さがあった。
駒子はすぐに支度をし、
島村もなんとなくそのあとを追った。

雪の中を歩く。
葉子の後ろ姿は、白い闇の中に溶けていく。
駒子が息を切らせて言う。
「葉子はね、先生の弟子だったの。
 東京から来て、病気の彼を看病してる。
 でも、まるで自分の命を全部その人にあげてるみたい。」

その小屋に着くと、
中には病人が横たわっていた。
頬はやせこけ、息は荒い。
葉子は薬瓶を握ったまま、無表情で男の傍らに座っていた。
その姿に、島村は息をのむ。

彼女の顔には、悲しみではなく、
「献身の静けさ」があった。

「人を愛することは、こういうことなのか。」

駒子が小声で言う。
「島村さん、あの子……あれで十九なんですよ。」
彼は答えられなかった。
ただ、火鉢の火が赤くゆらぐのを見ていた。

帰り道、駒子は黙って雪道を歩いた。
やがて立ち止まり、ふと島村を振り向く。
「ねぇ、あの子きれいでしょう?」
「……ああ。」
「でも、きれいすぎるの。怖いくらい。」

駒子の声には嫉妬が滲んでいた。
葉子の“純粋さ”が、
自分の生き方を突きつけてくるように感じたのだ。

宿に戻ると、駒子は酒をあおり、
突然、島村に泣きついた。
「私、あの子みたいになれない。
 あんなふうに真っ直ぐに誰かを信じられないの。
 私は……汚れてるのよ。」

島村は抱きしめるでも、慰めるでもなく、
ただ黙ってその言葉を聞いていた。
そして心の中で思う。
「駒子は確かに汚れている。
 だが、それは“生きている証拠”だ。」

翌朝、葉子が再び宿を訪ねてきた。
彼女は淡々と駒子に報告する。
「先生は、今朝亡くなりました。」
その声は泣きも笑いもせず、
まるで雪の降る音のように静かだった。

駒子は震える声で言う。
「私……葬式に行く勇気がない。」
葉子は首を振った。
「私、一人で行きます。」

島村はその姿を見送る。
雪に消えていく葉子の背中。
その白さに、彼は奇妙な美しさと恐ろしさを感じた。

「雪国の女たちは、
まるで“雪”そのもののように、
すべてを覆い隠し、そして消えていく。」

第3章は、「もう一人の女・葉子」の登場と、三人の運命の交差を描く。
駒子の情熱に対して、葉子は静かな献身。
島村はその対照の中で、“生の形”を見つめていく。
ここから物語は、
愛と死、嫉妬と美が絡み合う“雪の悲劇”へと進んでいく。

 

第4章 雪と火の女――駒子の情念

雪が深くなるにつれ、
町は音を失い、宿の窓も白く塞がれた。
その静けさの中で、島村と駒子の関係はますます近づいていく。

ある夜、湯殿の明かりが宿の雪に反射して、
室内まで白く照らしていた。
駒子は酔っていた。
頬を赤らめ、着物の襟を少し崩しながら、
「ねえ、島村さん。
 あなた、私のことを“かわいそう”だと思ってるでしょう?」
と挑むように言った。

島村は驚きながらも笑ってごまかそうとする。
だが、駒子はその笑いが許せなかった。
「あなた、なんでも“きれい”で済ませるのね。
 人が死んでも、泣いても、
 『きれいだ』って言って、遠くから眺めてるだけ。」

その言葉は、島村の胸を射抜いた。
彼は確かにそうだった。
駒子の激情も、葉子の悲しみも、
どこか“観察”の対象としてしか感じられない。

「あなた、何も知らないくせに、
 人の痛みを“芸術”にしてるのよ。」
駒子は涙を流し、
そのまま島村の肩に崩れ落ちた。

島村は、彼女の体温を感じながら思う。
「この人は、雪国の火だ。
 凍えた世界で、燃えるように生きようとしている。」

だが、その“火”に触れきれない自分を、
どこかで冷静に見つめてもいた。
駒子の愛は真っ直ぐすぎた。
そしてそれゆえに、彼には重かった。

翌朝、駒子は何事もなかったように振る舞う。
女将の手伝いをし、
客の世話をし、笑いながら人と話す。
だがその笑顔の奥には、
明らかに焦りと空虚が潜んでいた。

町では、葉子の看病していた男の葬儀が終わり、
葉子は沈んだまま姿を見せなくなっていた。
駒子はその話を聞くと、
「私、あの子が怖いの」とぽつりと言う。
「自分の命を全部、誰かにあげられる人って、怖い。」

その晩、雪はさらに強く降り積もった。
駒子は島村を自分の部屋へ誘い、
静かに言った。
「もう東京へ帰るんでしょう?」
「……まだ決めていません。」
「決めてるわ。
 あなたみたいな人は、
 雪が溶けたら、もうここにはいられない。」

その声は、あきらめにも似た優しさを帯びていた。
駒子は島村の肩に顔を寄せ、
「あなたを憎みたくない」と囁く。
そしてそのまま、彼の唇に触れた。

外では風が唸り、
雪の壁が軋む音がする。
二人はその音の中で抱き合い、
まるで世界の外に取り残されたような時間を過ごした。

夜が明け、島村は目を覚ます。
部屋の隅に座る駒子が、黙って彼を見つめていた。
その瞳には涙ではなく、静かな決意があった。
「もう、あなたを追わない。
 でも、私のことを忘れないで。」

島村は何も答えられず、
ただ雪の光に照らされたその顔を見つめた。

「雪の国に生きる女は、
火のように燃え、そして雪に埋もれていく。」

第4章は、駒子の愛の絶頂と、それに伴う崩壊の予兆を描く。
彼女の情熱は純粋であるほど痛々しく、
島村の冷ややかな視線との温度差が、
二人の恋の終わりを静かに予告している。
そしてこの雪の夜を境に、
物語は“愛の季節”から“崩壊の季節”へと向かい始める。

 

第5章 消える足跡――雪の沈黙と女の影

冬の盛り。
雪は屋根を埋め、道を覆い、町全体が静止したようだった。
空気の中の音まで凍りついている。
そんな中、島村は日に日に沈黙が増していく駒子と、
ほとんど言葉を交わさなくなっていた。

夜になると、彼は一人で廊下を歩き、
温泉の湯気越しに外の雪明かりを見る。
駒子は部屋で機織りをしている。
トントン、と規則正しい音。
だがその音は、どこか悲しい。

「まるで雪の中に埋もれた鼓動のようだった。」

ある日、女将が言う。
「駒子さん、最近あの葉子ちゃんの家に通ってるんですよ。」
島村は耳を疑う。
「まだあの子は……?」
「ええ、あの男の葬式のあとも、ずっとあの家に残ってるみたいで。」

島村はふと思う。
“駒子が葉子に会う――それは危うい。”

その夜、駒子が戻ってきた。
頬は冷たく、目が赤い。
「葉子、泣いてたわ。
 あの人がいなくなっても、何も言わないで……ただ泣いてた。」
島村は黙って聞いていた。
「私ね、あの子を抱きしめたの。
 でも、なんか違うの。
 あの子は私の腕の中にいながら、全然ここにいなかった。」

その言葉が、駒子自身の心を映しているようだった。
葉子の“消えかけた魂”が、
彼女の中の“愛の熱”を吸い取っていく。

翌日、島村は雪道を歩きながら考える。
「駒子も葉子も、雪の中で同じ道を歩いている。
 ただ、片方は火を持ち、もう片方は影を抱いている。」

その帰り道、彼は偶然、葉子を見かける。
白いマントをまとい、雪の上をゆっくり歩いていた。
島村が声をかけようとすると、彼女は振り返らずに言う。
「島村さん。駒子さんを、傷つけないでください。」

その言葉に、彼は何も返せなかった。
葉子は微笑んだような気配を残し、
雪の中に溶けるように消えた。

宿に戻ると、駒子が待っていた。
「葉子に会ったんでしょう。」
「……ああ。」
「やっぱりね。」

駒子は鏡の前で髪を結い直しながら言う。
「私ね、あの子を見てると、
 自分の“もう戻れないところ”を見てるみたいなの。」
「戻れない?」
「ええ。あの子にはまだ“未来”がある。
 でも私は、あなたに会った時点で、もう全部使い果たしたの。」

その夜、二人は久しぶりに同じ布団で横になる。
雪明かりが障子を透かし、
白い光が駒子の頬を照らす。
島村はその横顔を見ながら、
心の奥でかすかな痛みを覚えた。

「雪の中では、どんな愛も声を出せない。
ただ、溶けて、沈んでいくだけだ。」

翌朝、島村は外に出て、
雪の上に残る二人の足跡を見た。
それは並んで、やがて一点に重なり、
その先で途切れていた。

第5章は、「愛の停滞と、崩壊への予感」
駒子の激情は少しずつ凍りつき、
葉子の存在がその心の氷をさらに厚くしていく。
島村は二人の間で、
「人間のぬくもり」と「雪の冷たさ」の狭間に立たされる。
――そして物語は、静かな沈黙の底へと沈んでいく。

 

第6章 白い深淵――雪の底にあるもの

春が来る気配がしていた。
雪の中に、時折、黒い地面が見え始める。
けれど、そのわずかな“溶け”が、
かえって町全体を不安にさせていた。

島村は、季節の変わり目の寒気の中で、
次第に自分の存在の薄さを感じ始める。
駒子の熱も、葉子の沈黙も、
もうどこか遠い出来事のようだった。

「私は雪国に来て、女たちの心を見た。
だが、自分はどこにもいなかった。」

そんな虚ろな心のまま、
島村は葉子を訪ねていく。

葉子は男の死後も、
その小屋を出ずに暮らしていた。
粗末な部屋、乾いた薬瓶、そして彼女の静けさ。
そこにはもう、人間の温度がなかった。

「東京へ帰る気はないの?」
と島村が聞くと、
葉子は首を横に振った。
「私は、もうここで生きるしかないんです。」

その言葉には、
決意とも諦めともつかぬ静けさがあった。
島村は彼女の頬を見つめ、
その白さに、一瞬、雪の冷たさを感じる。

「駒子さんのこと、どう思ってる?」
葉子は少し笑った。
「私、あの人が好きです。
 でも、あの人は……あなたを見てる時の顔が、
 悲しくて仕方ない。」

島村は何も言えなかった。
雪がまた降り始め、
その小屋の窓に淡く積もっていく。

帰り道、彼の心には奇妙な寒気が広がっていた。
駒子と葉子――
どちらも、雪国という運命の中で閉じ込められている。
そして、自分だけがその外から眺めている。
それが、何よりも罪深く感じられた。

宿に戻ると、駒子が待っていた。
怒っているようで、泣いているような顔。
「葉子に会ってたのね。」
「……ああ。」
「どうして、あの子なの?
 あの子は、あなたの“きれい”の中に入らないの?」

島村は答えられなかった。
駒子は彼の胸を叩き、
「あなた、なんでも“雪みたいに美しい”で済ますけど、
 人間って、そんなにきれいじゃないのよ!」と叫んだ。

彼女の声が、静まり返った宿に響いた。
そして突然、駒子はその場に崩れ落ち、
「ごめんなさい……私、あなたが憎いのに、
 どうしても離れられないの。」と泣いた。

島村は抱きしめながら、
自分の手が震えているのを感じた。
この震えは寒さではない。
自分が“人の熱”に触れることを恐れている証拠だった。

夜、駒子は彼の寝床で、
ぽつりとつぶやく。
「ねえ島村さん。
 雪が溶けたら、あなた帰るんでしょう。」
島村は黙ったまま、
障子越しの雪の光を見つめていた。

「雪が溶ければ、すべてが終わる。
それを知りながら、誰も止められない。」

第6章は、「愛の行き止まり」
駒子と葉子、二人の女の世界は閉じ、
島村はその狭間で“人間の罪”を思い知る。
彼は雪国を愛しながら、
そこに生きることを恐れている。
――この章で、三人の運命の雪が、
ゆっくりと溶け始める。

 

第7章 融ける雪、残る影――終わりのはじまり

春の兆しは、雪国の人々にとって「解放」であり、「別れ」でもあった。
屋根から滴る水音が絶え間なく響き、
道の雪は泥と化し、
白い世界が少しずつ“色”を取り戻していく。

だが、島村の心には何の明るさもなかった。
雪が融けるたびに、
この土地に根を張る人々と、自分の“違い”がより明確になる。

「私はこの国の人間ではない。
けれど、この国を離れることが怖い。」

駒子は相変わらず宿で働いていた。
顔色はやや青く、笑顔は減った。
それでも、機織りの音だけは変わらず響く。
その音がまるで、
彼女の心の代わりに“まだ生きている”と主張しているようだった。

ある夜、駒子が島村を呼ぶ。
「葉子のところへ、一緒に行ってほしいの。」
島村は驚きつつも頷く。

二人が訪ねた小屋には、葉子がいた。
彼女は痩せて、肌は透き通るように白かった。
「春ですね」と微笑むその顔は、
まるで生者ではないかのように儚かった。

駒子は彼女に近づき、手を取る。
「もう東京に行きなさい。
 ここにいたら、死んでしまうわ。」
葉子は小さく首を振る。
「私は、あの人が眠っている場所から離れられません。」
島村は、その二人の姿を見つめながら息を呑む。
そこには、言葉では説明できない“絆”があった。

駒子は涙をこらえ、
「私、あの子を置いてはいけない気がするの」と言う。
しかし葉子は、静かに笑った。
「駒子さんは、行ってください。
 あの人(島村)は、駒子さんの世界の人だから。」

その一言が、駒子の胸に突き刺さった。
彼女は何も言わず、雪の外へ出ていく。

帰り道、駒子は沈黙を続けた。
夜風がまだ冷たい。
雪は溶けかけて、道はぬかるみ、
歩くたびに靴が沈む。
その音が、妙に痛々しかった。

宿に戻ると、駒子は火鉢の前に座り、
しばらく何も言わなかった。
やがて、小さくつぶやく。
「葉子は強いわ。私なんかより、ずっと。」
「強い、というより……透明なんです。」と島村。
駒子は苦笑した。
「透明なんて、あなたらしい言い方ね。
 でもね、あの子、本当に“消えちゃいそう”なのよ。」

その晩、駒子は島村にすがりつき、
「お願い、帰らないで」と泣いた。
島村は彼女を抱きしめながらも、
自分の中に“帰ることを前提にした優しさ”しかないと気づいていた。

雪の外では、蛙の声が遠くに聞こえ始める。
春の音だ。
しかし、その音は生命の息吹ではなく、
“終わりの合図”のように感じられた。

「雪が溶ける音の中で、
彼らの心は静かに崩れていった。」

第7章は、「溶解と分岐」の章。
雪国の冬が終わりを迎えると同時に、
三人の心の均衡も終わる。
葉子は“死”の影に、駒子は“嫉妬と誇り”に、
島村は“逃避の理性”に囚われていく。
――雪が溶けたとき、この関係も形を失う。

 

第8章 崩れゆく春――愛の残響と死の気配

春が完全に訪れ、雪国はようやく人の息を吹き返した。
それなのに、島村の胸には妙な寂寞が広がっていた。
冬のあいだに聞こえていた雪の音も、今はなく、
町には代わりに、どこか虚ろな“水の音”が満ちていた。

駒子は日に日に疲れていった。
表情は穏やかだが、目の奥がどこか遠い。
機織りの音はまだ続くが、そのリズムは弱く、
ときおり糸が切れるたび、彼女の指も震えていた。

ある晩、島村はふと思い立ち、ひとりで葉子を訪ねる。
小屋は相変わらず静まり返っており、
灯りの代わりにかすかな月明かりが差し込んでいた。
葉子は寝台に腰かけ、ぼんやりと雪解けの川を見つめていた。
「春は嫌いです」と彼女が言う。
「冬の方が、みんな優しかった。」

島村は胸を衝かれる。
彼女の声は淡々としていたが、
その言葉には、
“もうこれ以上は生きたくない”という疲弊が滲んでいた。

「駒子さんのこと、心配してるよ。」
と告げると、葉子は微笑んだ。
「駒子さんは強い人。
 でも、あの人の中には火がある。
 その火が燃え尽きるとき、あの人は死んじゃう気がします。」

島村は返す言葉を失った。
彼は二人の女の間を行き来しながら、
どちらの心にも触れきれない自分を感じていた。

宿に戻ると、駒子が待っていた。
「葉子のところに行ってたのね。」
彼女の声は静かだったが、
その静けさが逆に怖かった。

「あなた、あの子に惹かれてるの?」
「惹かれてはいません。ただ……放っておけない。」
「それを“惹かれてる”って言うのよ。」

駒子は笑ってみせるが、
その目に涙が浮かんでいた。
「私、あなたを憎めない。
 でも、愛してるとも言えないの。」

その夜、二人はほとんど言葉を交わさずに過ごす。
障子越しの春の光が淡く揺れ、
駒子の影がぼんやりと島村の胸に重なる。

次の日、宿の人が知らせを持ってきた。
「葉子ちゃん、具合が悪いらしいです。」
駒子はすぐに立ち上がり、
「私、行ってくる」と言い残して外へ走った。

島村もあとを追う。
雪解けでぬかるんだ道を進み、
二人は小屋へと駆け込む。

中では、葉子が倒れていた。
顔は真っ白で、唇もかすかに青い。
駒子は彼女を抱きしめ、
「ねえ、しっかりして!」と叫ぶ。
葉子はかすかに目を開けて、
「駒子さん、もう春ですね……」と微笑んだ。

その微笑みは、
まるで雪の最後のひとひらが溶けて消える瞬間のようだった。

駒子の頬を涙が伝う。
「どうして……どうして私じゃなくてこの子なの?」
その叫びは、愛でも嫉妬でもなく、
“生きてしまった者の痛み”そのものだった。

島村は、駒子の背中に手を置く。
「駒子さん……」
だが、何も言葉が続かない。

外では、川の音が激しくなっていた。
雪どけの水が奔流となり、
まるで誰かの命を運ぶように流れていく。

第8章は、「雪の国の春=生と死のすれ違い」
葉子は静かに“消える春”を迎え、
駒子はその消失に自分の運命を見る。
島村は二人を抱えながら、
初めて“人間の生きる痛み”を真正面から見つめる。
――そして、雪の世界にひびが入る。
やがて、それは取り返しのつかない崩壊へとつながっていく。

 

第9章 燃える空――雪国の終焉

葉子が倒れた夜を境に、雪国の空気は一変した。
冬の余韻をわずかに残した山々の上に、
春の嵐のような風が吹き荒れ、
空はどこか重く、息が詰まるほど青かった。

葉子は床に伏したまま目を覚まさなかった。
駒子は昼夜を問わず看病を続けた。
髪は乱れ、頬はこけ、
その姿はかつての華やかな芸者の面影を失っていた。
それでも彼女は離れようとしない。

「この子を置いてはいけない気がするの。
私が離れたら、雪国そのものが消えてしまうような気がするの。」

島村は二人を見守るしかなかった。
東京へ戻ることも考えたが、
彼の足は、なぜか雪解けの泥に縫い付けられたように動かない。
彼は、駒子と葉子、
その二つの命が沈んでいくのを、
最後まで見届けなければならないような気がしていた。

ある日の昼、
駒子がふと島村に言う。
「ねえ、葉子のこと……あなたは“きれい”だと思う?」
島村はうつむき、しばらく考えてから答える。
「ええ。きれいです。でも、それだけじゃない。」
「それだけじゃない?」
「あの子の中には、“死”がある。
 それが、人を美しく見せるんです。」
駒子はその言葉を聞いて、かすかに笑った。
「やっぱり、あなたはずるいわ。」

その晩、山の向こうで火の手が上がった。
旅館の蔵から出火したらしい。
人々が叫び、桶の水を運び、
夜空が赤く染まる。

島村と駒子も外へ飛び出した。
風が強く、火は一気に広がる。
雪国の白と炎の赤が、夜空の中で狂ったように交じり合う。
その光景は、まるで「雪の国の心臓が燃えている」ようだった。

駒子が叫ぶ。
「葉子を!葉子を助けて!」
彼女は宿の裏手へ駆け出す。
島村もあとを追う。
火の粉が降りかかり、
髪の先が焦げる。

小屋の前に着いたとき、
葉子はすでに外に出ていた。
だがその顔は蒼白で、
どこを見ているのかもわからなかった。
火の赤が、彼女の顔に幻想的な光を投げる。

「葉子!」
駒子が叫ぶと、葉子は一瞬だけ振り返る。
その瞳には涙ではなく、静かな光があった。
そして次の瞬間、彼女はふらりと後ずさりし――
火の中へ倒れ込むように消えた。

駒子は悲鳴を上げ、
島村の腕を振りほどいて炎の方へ走ろうとする。
「離せ! あの子を――!」
島村は必死で彼女を抱きしめる。
二人は雪の上に転がり、
赤い炎と白い雪に包まれる。

火は轟音を立てて燃え続けた。
空には火の粉が舞い、
やがて夜の闇が押し寄せるように炎を覆い尽くす。

島村は駒子の髪を撫でながら、
息を呑んでその光景を見つめる。

「この世でいちばん美しいものは、
たぶん、壊れていく瞬間なのだ。」

駒子は泣きながら、
「あなた、見て。あの空……燃えてる……」とつぶやく。
島村は空を見上げる。
炎の赤が雲を染め、
その向こうに無数の星が輝いていた。

雪がまだわずかに降っていた。
白と赤と黒――
その光景は、島村の心に永遠に焼きついた。

第9章は、「雪と炎」「生と死」「美と破壊」が一つになる章。
葉子は雪国そのものの“死”として消え、
駒子は“生”のままその死を抱きしめる。
島村はその狭間で、
初めて“美しいものの悲惨さ”を全身で理解する。
――雪国はこの夜、静かに燃え尽きた。

 

第10章 雪の果て――残る者、消えた者

夜明け。
燃え落ちた宿の跡から、まだかすかな煙が立ち上っていた。
焦げた木の匂いが雪の上を這い、
白一色の大地に、黒い筋を残している。

島村は焼け跡に立ち尽くしていた。
風は冷たく、夜の熱気をすっかり奪い去っている。
駒子は火事の混乱のあと、
力尽きたように地面に座り込み、
手の中で小さな焦げ跡を見つめていた。

「あの子、もう……いないのね。」

その声は震えていたが、涙はなかった。
泣き尽くしたというより、
もう“泣く”という感情を超えていた。

人々は夜通し後片づけをしていたが、
島村はただ空を見上げていた。
夜の燃え跡の赤がまだ薄く残り、
そこに朝の光がゆっくり溶けていく。
白い煙と薄青の空――
その対比が、あまりにも静かで残酷だった。

駒子がふらりと立ち上がる。
「島村さん、行くの?」
島村はしばらく黙っていた。
「……帰ります。」
「そう。」
それ以上、何も言葉はなかった。

駒子は焼け跡の中を歩き出し、
足元の灰を踏みしめる。
まるで何かを確かめるように、
そして、何かを忘れようとするように。

島村はその後ろ姿を見つめながら思う。
「この人は生きていく。
 けれど、その心はもう雪と同じだ。」

駅へ向かう道。
空気は澄んでいて、
雪解け水の音がどこまでも続いていた。
あの“国境の長いトンネル”が、
再び彼の前に現れる。

「トンネルを抜けると、
もう雪国ではなかった。」

列車の窓に映るのは、
自分の顔と、遠ざかる白い山々。
それはまるで、夢の断片のようだった。
葉子の微笑、駒子の涙、
火の赤、雪の白――
それらが混ざり合い、
一つの“幻”として彼の胸に沈んでいく。

都会へ戻る車窓の中、島村は呟く。

「あの雪の中に、たしかに“生”があった。」

それは慰めでも後悔でもなく、
“何かを見届けた者の言葉”だった。

彼は初めて、
人間の“美しさ”がどれほど脆く、
どれほど残酷かを理解した。
そして同時に、
自分がそれを愛してしまったことも。

列車がトンネルに入り、
光が一瞬で消える。
島村は目を閉じた。
闇の向こうに、駒子の声が微かに響く。

――「雪が、きれいね。」

それはもう、記憶の中の声だった。

列車が再び光の中へ出る。
外の景色は青く澄み、
春の空気が窓から流れ込む。
雪国の白さは遠く、
まるで幻のようにかすんでいく。

第10章は、「雪国という夢の終焉」
葉子の死と火事によって、
雪国そのものが“終わり”を迎える。
駒子は生き残り、島村は去る。
だがその心の中には、
雪と火と女たちの“美の残骸”が焼きついたままだった。

――雪国は消えた。
けれど、彼の中では、
永遠に溶けない雪が降り続いていた。