■体罰は子どもを本当に傷つけるのでしょうか?

 

もちろん体罰は子どもを傷つけます。体罰は、身体的にも、精神的にも子どもを傷つけます。世界中で行われている調査を通して、子どもたちは、体罰がどれほど自分たちを傷つけるかを語り始めています。2006 年に発表された、「子どもに対する暴力に関する国連事務総長調査報告書」は、世界で初めて包括的にこの問題の深刻さを明らかにしました。この調査を率いた専門家であるパウロ・セルジオ・ピニェイロ氏は、報告書の中で以下のように述べています。

 

「調査の過程で、子どもたちは直ちにこの暴力をすべて終わらせる必要があると繰り返し訴えました。子どもたちは、大人たちが黙認のみならず、容認さえしてきた暴力によって、身体的にだけでなく、『内面的にも傷ついてきた』と証言をしているのです。
体罰は、新たに発生した緊急性をともなう課題ではありませんが、政府は事態が危機的な状況にあることを認識しなければなりません。子どもたちは、何世紀もの間、大人たちによるこの暴力に、誰からも気づかれることなく苦しんできました。しかし、子どもに対する暴力の規模やその影響が明らかになりつつある今日、これ以上、子どもたちを待たせ続けるわけにはいきません。子どもたちが暴力から守られるための、実効性の高い権利保障が必要なのです。」

 

子どもを身体的に傷つけること自体、暴力から保護されるという子どもの権利を侵害しています。そのうえ、子どもが受ける痛みは、大人が意図するよりも大きいということはあまり認識されていません。大人と子どもの間には、大きさや力など、大きな差があるのです。ある大規模調査では、5 人に 2 人の大人が、意図した強さと異なる強さで子どもをたたいていたことが明らかになりました。また、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン精神医学研究所(Institute of Psychiatry and University College London) の研究では、懲罰を与える状況において人間の脳の活動状態は変化し、使用する力の加減は強まり、また実際にどの程度の力が使われたかについて誤認する傾向にあることが証明されました。

 

さらに、大人たちは、体罰によって生じる心の痛みに注意を向けないことがよくあります。それだけでなく、子どもの尊厳に与える影響、個人や社会全体に与える短期的あるいは長期的なダメージについても目を向けてきませんでした。「子どもに対するあらゆる体罰を終わらせるグローバル・イニシアチブ」は、体罰の影響に関する 250 以上の研究結果に注目しています。それらは、成長してからも子どもを苦しめ続ける可能性のある、健康、発達、行動への影響(たとえば、メンタルヘルスや認知発達の不調、学業成績の低下、攻撃性の増加、道徳心の低下、反社会的な行動の増加 ) など、広範囲におよびます。

1. Pinheiro, P. S. (2006), World Report on Violence Against Children, Geneva: 
UN Secretary-General’s Study on Violence against Children. 
http://www.ohchr.org/EN/HRBodies/CRC/Study/Pages/StudyViolenceChildren.aspx(英語)
2. Kirwaun, S. & Bassett, C. (2008), Presentation to NSPCC: Physical punishment, British Market 
Research Bureau/National Society for the Prevention of Cruelty to Children
3. Shergill, S. S. et al (2003), “Two eyes for an eye: The neuroscience of force escalation”, Science, 
vol. 301, 11 July 2003, p. 187
4. 参考 : www.endcorporalpunishment.org(英語)

 

 

 

■国連子どもの権利条約とは何ですか?また、子どもに対する体罰はどのように規定されていますか?

 

 

国連子どもの権利条約は、歴史上世界で最も多くの国が批准した人権条約です。また、子どもの権利をとりまとめた文書として、最も完成度が高いものです。この条約は、全部で 54 条あり、子どもの生活に関わるすべての要素を取り上げ、すべての子どもたちが生まれ持つ、市民的、政治的、経済的、社会的、文化的権利を保障しています。国連子どもの権利委員会は、条約を署名・批准した締約国において、条約上の義務が正しく履行されているかを監督する役割を担っています。委員会は、締
約国が体罰を法律で禁止する義務を負うとし、またその範囲は家庭、社会的養護、保育施設、学校、司法制度などすべての環境を含むことを明言しています。国連子どもの権利委員会の一般的意見 8 号「体罰その他の残虐なまたは品位を傷つける形態の罰から保護される子どもの権利 ( とくに第 19 条、第 28 条 2 項および第 37 条 )」が、この義務を明らかにし、続く一般的意見 13 号「あらゆる形態の暴力からの自由に対する子どもの権利」においても、このことが改めて主張されています。

 

委員会は定期的に条約の履行状況を審査し、総括所見を通して、体罰の禁止に関する勧告を各国政府に対して行っています。その他の人権諸機関も体罰の禁止を推奨し、国連人権理事会の普遍的定期的審査でも体罰の問題が常に問題提起されています。

 

 

 

■世論調査によると多くの人が体罰の禁止に反対しています。その人たちの意見を聞くべきではないでしょうか?

 

女性に対する暴力や人種差別に立ち向かったときと同じように、体罰の問題についても世論に従うのではなく、政治家が主導する必要があります。子どもが人間として持つ尊厳を、大人と同様に法的に保護をしなければならないという、政府の責務が問われているのです。体罰を禁止したほとんどの国は、世論に先行して法改正に着手をしています。そして、法改正後に、世論が後から支持に回るようになることは経験から明らかになっているのです。数年後には、子どもをたたくことが法律で容認されていた時代を不思議にさえ思い、恥ずかしさを覚えるようになるのではないでしょうか。

 

通常、世論調査の結果は設問のあり方と回答者が持つ情報量に左右されます。もし、暴力から守られる権利の不平等や体罰を法律で禁止する本来の目的など、子どもたちが直面する課題について、人々が十分な情報を有していたなら、体罰の禁止を支持する人は増えるかもしれません。繰り返し行われる世論調査では、質問の仕方を変更したことにより、大きく異なる結果を得たという例もあります。

 

 

 

■体罰に賛成する子どもや若者の意見を耳にします。彼らの意見を聞くべきではないでしょうか?

 

身体的な罰を受けることが、彼ら自身にとって良いことだと発言する子どもがいるのは事実です。体罰は、しつけのためだから、親の愛があるのだからといった理由で、彼らはそう言うのです。もちろん、私たちは子どもや若者の意見に耳を傾けなければなりません。しかしながら、私たち大人は子どもの言っていることをうのみにするのではなく、子どもが話したことを理解する責任があります。前述の通り、体罰による身体的な痛みを子どもたちが打ち明け始めたのは事実です (p.8「体罰は子どもを本当に傷つけるのでしょうか?」参照 )。子どもが体罰は良いもので必要だと語るとき、体罰を受けることが当たり前で正しいとする環境で育てられていることがあります。体罰は自分のためであると自身に言い聞かせることで、親や養育者の態度や行動を受け入れ、受けた痛みを正当化し、また納得しようとした結果とも言えるのです。

 

子どもには、あらゆる暴力から保護される権利があります。これは、人間としての尊厳と身体的不可侵性*が尊重されるということです。これらの権利を法律で保障することは政府の責任です。そして、親や養育者、周囲の大人たちは、子どもが自身の持つ権利について知り、自分や他人との関係のなかで権利を尊重することを学ぶように育てる責任を負っています。

 

 

 

■子どもの頃に私はたたかれていましたが、何の悪影響もありません。私の親がたたいて育てたからこそ、今の自分があるのでしょうか?

 

たたかれたり、屈辱を与えられたりすることがなかったなら、私たちがどのように育っていたのかは、誰にも知る由がありません。体罰による害はなかったと言う人の多くは、自分の経験した痛みを否定しようとします。最も身近にいた大人が、自分を痛めつけて教育しようとしていた事実に気づくとき、多くの人が当時の痛みを否定するのです。しつけの名の下に子どもをたたく大人は、子ども時代に自分がたたかれた経験があるから、たたき始めるようになることがあると言われています。研究は、体罰を使うことにときに罪悪感を抱き、また辛抱強くあろうとしてもなお、わが子をたたき続けてしまうことがあることを報告しています。体罰を容認していた世代を批判することは建設的ではありません。人々は当時の時流に従っていたにすぎないからです。しかし、親の世代を批判することを恐れるあまり、変化を受け入れないことは間違っています。時代は流れ、社会は前進します。子どもの権利を認めるためには、法律で、また社会全体で、子どもへの暴力の容認に終止符を打つことが必要なのです。それは、私たちの社会が女性に対する暴力を容認した時代を終わらせたときと同じです。

 

「子どもの頃にたたかれたけれど、私は普通の大人になれました」と言う声を聞きます。たしかに、私たちの社会には、あらゆる苦い経験を重ねても「普通の大人」になる人がいます。しかし、彼らはその経験そのものが素晴らしいものだったとは言わないでしょう。実際には、苦い経験にどのように向き合ったかが、彼らを「普通の大人」にしたのであって、苦い経験そのものが彼らを「普通の大人」にしたわけではありません。

 

 

 

■子どもが直面する権利侵害にはもっと深刻なものがあります。なぜ、この些細な問題に注目するのでしょうか?

 

子どもに対する暴力の中で最も多い形態は、暴力をともなう「しつけ」であるとユニセフは発表しています。世界中で、体罰により、毎年何千人もの子ども、特に幼い子どもたちが命を落としています。また、体罰により、毎年数百万人もの子どもがけがをしています。体罰は、取るに足らない問題ではないのです。さらに、これは単なる子どもへの暴力に関する問題ではありません。これは、子どもたちがどんなに軽んじられた存在であるかを象徴しています。多くの国で、いまだ体罰が合法である実態こそ、子どもたちが大人と同じ権利の保有者でなく、ひとりの人間に満たない、まるで所有物であるかのような扱いをされていることを暗に物語っています。世界の大多数の子どもたちが、日々体罰を経験しています。そして、その一つ一つの事例において、子どもたちの尊厳や身体的不可侵性が侵害されています。女性に対する家庭内暴力を禁止し、この問題に挑むことが女性のエンパワーメントと権利擁護の中心にあったように、子どもに対する暴力にも同じアプローチが必要です。体罰の禁止は、子どもたちの軽んじられてきた地位を向上させ、私たちの社会における子どもの捉えられ方や扱われ方の改善へ貢献するものです。どんな国も、法で子どもに対する暴力を容認しておきながら、子どもを権利保有者として尊重しているということは言えません。法による禁止がなければ、十分に効果的で安全な子どもを守
る制度を確立しているとは言えないのです。

 

 

■親は子どもをそれぞれの方法で育てる権利があります。極端な虐待のケースでなければ、とがめられる必要はないのではないでしょうか?

 

私たちの社会は、子どもは親の所有物ではなく、固有の権利を持つ個人と見るように変わりつつあります。子どもには人権があり、それは家に一歩足を踏み入れた途端に失われてしまうものではありません。子どもの持つ権利は親などの誰もが有する権利と同じです。子どもが家庭における暴力から守られることは、大人が親しいパートナーによる暴力から守られることと同じで、プライバシーの侵害や家庭生活への介入にはあたりません。

 

国連子どもの権利条約は、「子どもの最善の利益」が親や養育者の基本的関心事であり、その達成に努めることは親や養育者の責任であるとして、家族の重要性を掲げています (18 条 )。これを理由に、しつけのために子どもをたたくことは、長期的には子どもの最善の利益になると主張する人がいます。その議論に関して、子どもの権利委員会は次のように述べています。

 

「子どもの最善の利益に関する解釈は、条約全体(あらゆる形態の暴力から子どもを保護する義務および子どもの意見を正当に重視する要件を含む)と一致するものでなければならない。子どもの最善の利益のためだとして、子どもの人間の尊厳、および身体的不可侵性に対する権利に抵触する慣行(体罰その他の形態の残虐なまたは品位を傷つける罰を含む)を正当化することはできないのである」

 

そして何より、親や養育者に対して、家族関係の悪化に代表されるように、体罰が子どもにとってどんな利益もたらすこともなく、多くの悪影響を生むものであるという明確なメッセージを届けるが必要です。

 

 

 

■子どもを殴ることと愛情を込めてたたくことには大きな違いがあります。体罰の禁止はやりすぎではないですか? 

「愛情を込めてたたく」より、殴る方が子どもの受ける身体的な痛みは大きいのかもれません (p.8「体罰は子どもを本当に傷つけるのでしょうか?」参照 )。しかし、程度の違いはあってもどちらも暴力であり、子どもの尊厳や身体的不可侵性を侵害するものであることに変わりはありません。私たちの社会は、高齢者への暴力に対する議論において、その程度を問うことはありません。ではなぜ、子どもへの暴力については、程度の議論が生じるのでしょうか? 

 

また、人を愛することと痛めつけることを結びつけようとすることは明らかに危険です。「愛情を込めてたたく」の議論は、子どもに対する暴力に関する議論の中で、最も大きな矛盾を生むものです。このように、一見すると、子どもへの悪影響が緩和されたかのような表現を使うことは、子どもの権利を侵害する暴力行為を包み隠してしまうのです。

 

一方、「軽くたたくことと虐待は大きく異なる」と主張する人がいます。「愛情」があるか否かでなく、暴力の程度が問題であるという主張です。しかし、大人が暴力の程度を正確にコントロールすることができるという前提に立つこの主張は、既に反証されています。研究によって、通常、意図していたよりも強い力が使われており、その力は次第に強まるということが立証されています。

 

そして、繰り返しになりますが、たたく力の程度の問題ではなく、行為自体が、尊重されるべき子どもの権利の一つである、身体的不可侵性を侵害していることを忘れてはいけません。伝統的に、議員や政府は、「子ども虐待」と「体罰」を区別しようとしてきました。しかしながら、多くの虐待の実態は体罰です。大人が子どもを罰するために暴力を用い、支配する行為です。高齢者に対する暴力の議論では、このような境界線をめぐる議論は存在しません。どのような暴力も一切認められないということは、明確になっているのです。しかし、子どもに対する暴力の議論となると、大人たちは恣意的な区別を作り出そうとしてきました。懲罰的な暴力であれば容認されるが、「虐待」となれば認められないと言うのです。現実的には、子ども虐待と体罰を区別することはできないのです。

 

 

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