第二章

「伝統・文化」を免罪符にしないために


日本の社会に於いて、「伝統」や「文化」の二つの単語は、時として議論を強制終了させる「魔法の言葉」として使われる。


特に動物の扱いが問われる祭事や慣習において、これらの言葉はしばしば、本質的な批判から目を逸らすための「防御的なレトリック」の役割を果たす


1. 「歴史の重み」というシャッター


批判の矛先が「動物の苦痛」や「現代における安全性の欠如」といった具体的な問題に向けられていても、擁護側が「700年の伝統」や「無形民俗文化財」といった権威を持ち出した瞬間、議論のシャッターは下ろされる。


これは、具体的な改善案を「文化そのものへの否定」という感情的な二元論にすり替える手法で、上げ馬神事を巡る議論でも、馬の骨折や殺処分といった現実的なリスクに対し、「神事だから」「昔からこうだった」という返答が繰り返され、これは文化相対主義を悪用し、普遍的な倫理(不必要な苦痛を避ける)を封じ込める論理に他ならない。


2. 批判を「外敵」に仕立てる責任転嫁


「伝統」という盾は、批判を「外部からの干渉」や「理解不足」としてレッテル貼りする際にも使われ、批判者を「文化を尊重しない人々」と位置づけることで、内部にある改善の必要性から目を逸らすのだ。


しかし、歴史を紐解けば、多くの伝統は時代に合わせて姿を変えてきており、例えば、上げ馬神事の急峻な土壁も、実は後世に追加された要素だという指摘もあり、「古来の形」という虚像を守るために現状維持を正当化することは、結果として国際的な批判を招き、伝統そのものの存続を危うくする皮肉な結果を生んでいる。


3. 真の継承とは「変化」を受け入れること


「伝統」を免罪符や盾として使うことの最大の問題は、文化の本質を矮小化させてしまう点にあり、本当の意味での文化継承とは、単なる形骸的な繰り返しではなく、時代の価値観と照らし合わせながら、その精神や意義を次世代へ繋ぐことなのだ。


実際、上げ馬神事では土壁の撤去や坂の緩和、暴力の禁止といった抜本的な改善が行われ、地元の人々はこれを「伝統の破壊」ではなく、「継承のためのアップデート」と位置づけ、新たな一歩を踏み出している。


4.静的な遺物から、動的な文化へ


伝統は、決して触れてはいけない「静的な遺物」ではない。


現代の動物愛護意識の高まりは、伝統がより健全な形で生き残るための「試練」であり「機会」でもあり、「文化」を盾にして思考停止に陥るのではなく、その価値を認めつつも、現代の倫理とどう共生させていくか。

自覚的に問い続ける姿勢こそが、真の伝統を守る唯一の道なのだ。


第一章

多度大社「上げ馬神事」が提示したもの。


700年の歴史を持ち、三重県指定無形民俗文化財でもある多度大社の「上げ馬神事」。

農作物の豊凶を占う勇壮な祭りとして親しまれてきた「伝統」なのだが。


1.炎上の引き金となった犠牲


長年、地元では「当たり前」の光景だったこの神事が、全国的な批判の標的となったのは2023年。

 

1頭の馬が転倒して脚を骨折し、殺処分となったショッキングなニュースはSNSを通じて瞬く間に拡散。

「伝統の名を借りた虐待」「馬殺し」の批判が飛び交い、数万筆の署名や行政への苦情が殺到する事態へと発展。


2.突きつけられた「現代の物差し」


批判の矛先は


構造の過酷さ

高さ約2mの垂直に近い土壁は、国際的な馬術競技の基準を逸脱しており、馬の身体能力の限界を超えているという指摘。


動物への接し方

興奮させるための叩打や威嚇など、馬の苦痛を前提とした手法への不信感。


価値観の乖離

「神事だから」という理由で動物の犠牲を容認する考え方が、現代の動物愛護の意識と決定的にズレてしまったこと。


海外メディアからも「残酷(cruel)」と報じられたことは、日本の伝統行事が国際的な視線にさらされていることを改めて浮き彫りにしたのだ。


3.変容する伝統


こうした強い批判と、県教育委員会からの改善勧告を受け、2024年の開催では変化が見られた。


象徴であった「土壁」は撤去され、坂の傾斜も緩やかに。

馬への暴力行為も厳禁とされるなど、安全性を最優先した形へと舵を切ったのだ。


しかし、一部では「迫力がなくなった」「これはもう別の行事だ」という声もあり、また少子高齢化による担い手不足という、伝統継承そのものの存続危機も影を落としている。


4.現代の伝統、文化のあり方


「上げ馬神事」を巡る騒動は、単なる一神事の是非を超え、「現代社会において、人間は動物を利用した文化とどう向き合うべきか」という重い問いを投げかけているのだ。