「北炭夕張鉄道で重連のお別れ運転がある」

そう聞いたのは旅の終盤に訪れた石北本線美幌・緋牛内間にあるお立ち台でであった。周りの鉄チャンは皆行くようだ。僕らが予めたてていた計画ではその日の晩の夜行急行大雪で岩見沢に出て、栗丘・栗山間で撮影した後に夕張線に入り、その日(お別れ運転前日)は夕張の旅館に泊まることになっていた。要すれば僕らもお別れ運転列車を撮ることができるのである。

石北本線撮影の翌日は計画通り栗丘・栗山での撮影に続き、紅葉山(現 新夕張)付近でD51の石炭列車を2本撮って、更にもう1本撮ろうかというところであった。そんなとき連れの一人K君が突然鹿ノ谷に行って夕張鉄道の蒸機を撮りたいと強い口調で言い出した。僕は古臭い9600より近代的なD51の方がいいなぁと思っていた。しかし、多勢に無勢というか2対1で鹿ノ谷が優勢だったので、夕張線の撮影を切り上げて鹿ノ谷にやってきた。

鹿ノ谷に着いたのは夕刻に近い頃合だった。国鉄夕張線から夕張鉄道に続く長い跨線橋を渡り、事務所で撮影許可をもらって機関区での撮影を始めた。無煙化直前というのに多くのカマに火が入っていて活気が感じられた。構内にいた職員に「明後日からはDLですか?」と聞いたところ、鉄道そのものが廃止になるという衝撃的な答えが返ってきた。夕暮れが近づくなか曇り空ではあったが、僕らは別れを惜しむように2度と見ることができないであろう情景をフィルムと瞼に焼き付けたのであった。

↓以下の写真は特記以外1975年3月撮影

↑↓上の2点は初日の撮影、下の2点は二日目の撮影
↓以下のカラー4点はブロニー判のネガカラーで撮影。六六判を3:2にトリミングした。

翌日のお別れ運転当日は朝方平和の錦沢寄りのカーブで逆向き蒸機牽引の石炭列車を小高い丘から俯瞰で撮った後、平和・若菜間のカーブした大築堤に移動し、重連のお別れ列車を撮った。僕らはこの日が北海道での実質最終日。午後は夕張線で撮影かなと思っていたところ、K君がまたもや鹿ノ谷機関区で撮りたいと言い出した。夕張線の蒸機は今後もまだ残りそうで、また来ることもあるだろうから、まぁいいかと思って同意し、バスに乗って再び鹿ノ谷機関区を訪れた。(余談になるが、この後蒸機を撮る機会のないまま夕張線は無煙化されてしまった。)

前日は初めて見る夕張鉄道の9600に興奮してしまって、撮るのはもっぱら蒸機のみ、ブロニー判のC220を取り出す余裕もなかった。昨日に続き2回目ということもあり、蒸機だけでなくDLやDCを撮ったり、カマ替え作業をする職員を絡めた情景を撮ったりもした。途中でC220の巻き上げを忘れて多重露出で何枚も撮っていることに気づき撮り直しもしたが、思う存分撮影できた。この日も曇りの天気だったが、日が暮れた頃夕張線の気動車に乗り込み、鹿ノ谷に別れを告げたのであった。

↓夕張鉄道のキハ250形のうち何両かはその後関東鉄道に譲渡されるとは知る由もなかった。このキハ254も関東鉄道に譲渡され、キハ715となった。

↓前日に続く訪問とはいえ興奮していたのか多重撮りをやらかした。

ごく短時間の鹿ノ谷機関区訪問であったが、あれから半世紀近く経とうというのに、あの鹿ノ谷の情景は忘れられない。今ふりかえると炭鉱の空気が色濃く漂う中での撮影は至福の時間だった。機関区だけでなく駅や周辺の写真があれば当時をもっと偲べるのにとも思うが、そんなもの撮っているはずがない。そんな中、鉄飲み友達のo_pen_yt氏が鹿ノ谷で写真を撮っていると言う。見せてもらうと既に夕張鉄道の線路が剥がされた後ではあるが、鹿ノ谷の風景がしっかりと記録されていて、瞬く間に記憶が蘇ってきた。o_pen_yt氏に感謝するばかりである。今回氏の了解を得て、その後の鹿ノ谷駅の様子をお目にかける次第である。なお、余談ながら氏は最近Instagramを始められたようで、これから昔懐かしい駅の写真が順次アップされるものと思われ、期待が大いに膨らむ。

↓鹿ノ谷の駅舎(上)と鹿ノ谷に進入するキハ40の4連(下)。手前の雪原が夕張鉄道鹿ノ谷機関区の跡地(1988年3月・o_pen_yt氏撮影)

↓駅の東側を結ぶ跨線橋から鹿ノ谷機関区跡地を望む(2019年3月・o_pen_yt氏撮影)