劇団エンゼルの創立者は、高倉亜矢子(タカクラアヤコ)さんです。


演劇 『赤毛のアン』 の脚本を手掛け、上演権を取得し、演出をされてます。

 

来年、劇団創立50周年を迎えます。  高倉さんに原稿をお願いしました。

 

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今、赤毛のアンとの出逢いのメッセージを所望されたが、演劇との出逢いを語らねば先へと進まない。

 

 戦争真只中の昭和20年。昼も夜もなく空襲警報が鳴り、山肌に掘られた防空壕を出たり入ったりの時代だった。

 

 隣組の住民が入る防空壕。かなり広い穴倉だった。赤土の天井から山水の雫が落ちる湿った土の上に座って敵機をやり過ごし、警戒警報がとかれると防空壕の蓋が開き、大人と一緒に穴から這い出る毎日だった。

 

 空が見える。四角い青い空が見えたとき 「今日もおままごとごっこが出来る」 それが当時、少女だった私の喜びだった。

 

 

 穴の中はいつも指定席のように座る順序が決まっていた。私の隣は鈴木の小母ちゃん。向かいは川上のおねえちゃんといった風景だった。 しかし、3月頃からポツリポツリ席に穴が空きはじめた。 鈴木の小母ちゃんが来なくなり、大声で怒鳴るおじちゃんも来なくなり、席がぽポツポツと空いた。

 みんな知っていた!! どうして穴が空いているのか誰も聞きはしなかった。 誰も空席を詰めようともしなかった。 みんな知っていたから・・・。 昨日遊んだ友子ちゃんも井戸水汲んでくれたお姉さんもあの日から居なくなった・・・。 こどもは三人だけになった。

 

 向かいに座っていた六年生のお姉ちゃんが、手を握って 「お膝の上にのせてごらん」といって、突然握った私のこぶしの中へ指を入れてズイズイズッコロバシ ゴマミソズイを歌いだした・・・その時のお姉ちゃんの指の温かかったこと。 その指の温かさが後に私を演劇の道へと誘(いざな)った。

 

 家が焼け、養父が死に、祖母が倒れ、戦争が終わった!

 杉並から新宿が丸見えになった、町に親も家も失った子どもがあふれ出した。

 

 

 それから何年かたって、私は表紙の破けた一冊の本を拾った。それが赤毛のアンとの出逢いでした。

 お転婆で、廻りの人たちを驚かせて義母を悲しませ悪ガキと呼ばれた私に、アンは分身のように思いました。

 苦しい生活の中、病弱な義母は懸命に私を育ててくれて短い一生を終えました。 生きている間に優しい一言もかけてやれなかった自分を悔いました。

 

 そんな私が出来ることは演劇の中でアンに代わりに言ってもらおう 「今までどれほど私に尽くして下さったマリラに・・・今度は私が尽くす番よ!」・・・と。