第14話木曜日有名人レビュー
『諸葛亮公明』
三国志で有名な「諸葛孔明」の名は、どこかで聞いたがことがある
人も、多いのではないでしょうか。
諸葛孔明は、中国は漢の時代の後期に、三つの国「魏」「呉」「蜀」
に分裂する戦乱の世で、活躍した優れた軍師です。
今回の有名人レビューは『諸葛亮公明』にチャレンジしました。
中国の偉人なので漢字が多く少しばかり聞き取りにくいかも
しれませんが頑張って説明してみます。
今日のレビューは、「蜀」の皇帝・劉備に仕えた武将という事で、
劉備が没するまでをシェアーします。
三国志で有名な「諸葛孔明」の名は、どこかで聞いたがことがある
人も、多いのではないでしょうか。
諸葛孔明は、中国は漢の時代の後期に、三つの国「魏」「呉」「蜀」
に分裂する戦乱の世で、活躍した優れた軍師です。
今回の有名人レビューは『諸葛亮公明』にチャレンジしました。
中国の偉人なので漢字が多く少しばかり聞き取りにくいかも
しれませんが頑張って説明してみます。
今日のレビューは、「蜀」の皇帝・劉備に仕えた武将という事で、
劉備が没するまでをシェアーします。
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■諸葛亮孔明
諸葛 亮(しょかつ りょう)181年 - 234年は、中国後漢末期から
三国時代の蜀漢の政治家・軍師です。字は孔明(こうめい)です。
諸葛豊の子孫で、泰山郡の諸葛珪の子です。諡(し:おくり名)は
忠武侯(ちゅうぶこう)です。
蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相として
よく補佐しました。伏龍、臥龍とも呼ばれます。
今も成都や南陽には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が
訪れています。
妻は黄夫人です。
子は蜀漢に仕え綿竹(成都付近)で戦死した諸葛瞻(せん)。
孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、
西晋の江州刺史になった諸葛京がいます。
□書生時代
徐州琅邪郡陽都県(現在の山東省臨沂市沂南県)が本貫ですが、
出生地は不明です。
身長は8尺(後漢の頃の1尺は23cmで8尺は184cm)です。
その祖先は前漢元帝の時の司隷校尉の諸葛豊で、父は諸葛珪です。
泰山郡の丞(郡の副長官)を務めた人物ですが、諸葛亮が幼い時
に死去しています。生母の章氏も同様に幼い時に死去していますが、
父は後に後妻の宋氏を娶っています。
年の離れた兄には呉に仕えた諸葛瑾、弟には同じく蜀漢に仕えた
諸葛均、他に妹がいます。
まだ幼い頃、徐州から弟の諸葛均と共に従父の諸葛玄に連れられ
南方へ移住します。この時の行き先について『三国志』本伝では、
従父・諸葛玄は袁術の命令を受けて豫章(よしょう)太守に任命
されますが、後漢の朝廷からは朱皓が豫章太守として派遣され、
その後劉表の元に身を寄せたとなっています。
その後、諸葛亮は荊州で弟と共に晴耕雨読の生活に入り、好んで
「梁父吟(りょうほぎん)」を歌っていたといわれます。
この時期には自らを管仲・楽毅に比していましたが、当時の人間
でこれを認める者はほとんどおらず、親友の崔州平や徐庶だけが
それを認めていたといわれてます。
また、この時期に地元の名士・黄承彦の娘を娶ったようです。
黄承彦は「私の娘は色が黒くて醜いが、才能は君に娶わせるに足る」
と言い、諸葛亮はこれを受け入れました。
周囲ではこれを笑って「孔明の嫁選びを真似てはいけない」と囃し
立てたといいます。これ以降、不器量の娘を進んで選ぶことを
「孔明の嫁選び」と呼ぶようになりました。
□三顧の礼
この頃華北では、建安5年(200年)に曹操が袁紹(えんしょう)を
打ち破って覇権を手中にし、南進の機会を窺っていました。
劉備は袁紹の陣営を離れて劉表を頼り、荊州北部・新野(河南省
南陽市新野県)に居城を貰っていました。
諸葛亮は晴耕雨読の毎日を送っていましたが、友人の徐庶が劉備
の下に出入りして、諸葛亮のことを劉備に話しました。
人材を求める劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼み
ますが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物
ではない」と言ったため、劉備は3度諸葛亮の家に足を運び、
やっと幕下に迎えることができました。
これが有名な「三顧の礼」です。『襄陽記(じょうようき)』には、
劉備が人物鑑定家として有名な司馬徽(しばき)を訪ね、司馬徽は
「時勢を識るは俊傑にあり」として「伏竜」と「鳳雛(ほうすう)」
すなわち諸葛亮とほう統とを薦めたという話があります。
この時、諸葛亮は劉備に対していわゆる「天下三分の計」を披露し、
曹操・孫権と当たることを避けてまず荊州・益州を領有し、その後
に天下を争うべきだと勧めます。これを聞いた劉備は諸葛亮の見識
に惚れ込み、諸葛亮は劉備に仕えることを承諾します。
これを孔明の出廬(しゅつろ)と呼びます。
□赤壁の戦い
建安13年(208年)、劉表陣営では次男の劉琮が後継となることが
ほとんど決定的となり、長男の劉琦は命すら危ぶまれていました。
劉琦は自らの命を救う策を諸葛亮に聞こうとしていましいたが、
諸葛亮の方では劉表一家の内輪もめに劉備共々巻き込まれることを
恐れて、これに近寄らなかったのです。
そこで劉琦は一計を案じて高楼の上に諸葛亮を連れ出し、登った後で
はしごを取り外して、諸葛亮に助言を求めます。
観念した諸葛亮は春秋時代の晋の文公の故事を引いて、劉琦に外に
出て身の安全を図るよう薦めます。劉琦はこれに従い、その頃太守
の黄祖が孫権に殺されたため空いていた江夏(現在の湖北省武昌)
へ赴任する事にします。
劉琦の兵力は後に劉備たちが曹操に追い散らされたときに貴重な
援軍となります。
同年、劉表が死去。その後を予定通り劉琮が継ぎます。
諸葛亮は劉備に荊州を取れば曹操に対抗できるとすすめますが、
劉備はこれに難色を示します。
まもなく曹操が南下を開始すると、劉琮はすぐさま降伏します。
劉備は曹操の軍に追いつかれながらも、手勢を連れて夏口へ逃れ
ます(長坂の戦い)。
孫権陣営は情勢観察のため、劉表の二人の息子への弔問を名目に
魯粛(ろしゅく)を派遣してきていました。諸葛亮は魯粛と共に
孫権の下へ行き、曹操との交戦と劉備陣営との同盟を説き、
これに成功します。
この際、孫権から「劉豫州(劉備)はどうしてあくまでも曹操に
仕えないのか」と問われ、諸葛亮は
「田横(でんおう)は斉の壮士に過ぎなかったのに、なおも義を守
って屈辱を受けませんでした。まして劉豫州(劉備)は王室の後裔
(こうえい)であり、その英才は世に卓絶しております。多くの士
が敬慕するのは、まるで水が海に注ぎこむのと同じです。もし事が
成就しなかったならば、それはつまりは天命なのです。どうして
曹操の下につくことなどできましょうか」
と答えたそうです。
その後、劉備・孫権の連合軍は曹操軍と長江流域で対決し、勝利
します(赤壁の戦い)。
□入蜀
戦後、劉備たちは孫権・曹操の隙を衝いて荊州南部の4郡を占領
します。諸葛亮は軍師中郎将に任命され、4郡の内の3郡の統治に
当たり、ここからの税収を軍事に当てます。この頃、諸葛亮と
並び称されたほう統が劉備陣営に加わります。
建安16年(211年)、荊州の次に取る予定であった益州の劉璋より、
五斗米道の張魯から国を守って欲しいとの要請が来ます。しかし、
その使者の法正は張松と謀って、益州の支配を頼りない劉璋から
劉備の手に渡す事を目論んでいました。
劉備は初めこれを渋ったのですが、ほう統の強い勧めもあり、
益州を奪う決心をします。劉備はほう統・黄忠・法正らを連れて
益州を攻撃します。
諸葛亮は張飛・趙雲・劉封らとともに長江を遡上し、手分けして
郡県を平定すると、劉備と共に成都を包囲します(劉備の入蜀)。
建安19年(214年)に益州が平定されると、諸葛亮は軍師将軍・
署左将軍府事となります。劉備が外征に出る際には常に成都を守り、
兵站を支えます。また法正・劉巴・李厳・伊籍とともに蜀の法律
である蜀科を制定しました。
□夷陵の戦い
その後、劉備は曹操に勝利し漢中を領有しますが、荊州の留守を
していた関羽が呂蒙の策に殺され、荊州は孫権に奪われます。
劉備の養子の劉封が孟達・申儀の裏切りにより曹操軍に敗走して
成都に戻ってくると、劉備は劉封が関羽の援軍に行かなかったこと
と、孟達の軍楽隊を没収したことを責めます。諸葛亮は劉封の剛勇
さは劉備死後に制御し難くなるだろうという理由から、この際に
劉封を除くように進言します。劉備はその提案に従い、劉封を自殺
させます。
建安25年(220年)には曹操が死去し、その子の曹丕が遂に後漢の
献帝より禅譲を受けて、魏王朝を建てます。
翌年、劉備はこれに対抗して成都で漢帝を称して、即位して蜀漢を
建て、諸葛亮は丞相・録尚書事となります。
劉備が呉へ進軍を計画し、この戦いの準備段階で張飛が部下に殺さ
れるという事件が起こり、諸葛亮は張飛が就いていた司隷校尉を
兼務します。この戦いは最初は順調に行き、途中孫権は領土の一部
を返還して和睦を行おうとしますが、劉備はそれを聞かず、陸遜の
作戦にはまり大敗に終わります(夷陵の戦い)。
この戦いの後、諸葛亮は
「法公直(法正)が生きていれば、主上(劉備)を抑えて東征させ
たりはしなかっただろう。たとえ東征したとしても、このような
危機にはならなかっただろうに」
と嘆きます(法正は建安25年(220年)に死去しています)。
劉備は失意から病気が重くなり、逃げ込んだ白帝城で章武3年
(223年)に死去します。死去にあたり劉備は諸葛亮に対して
「君の才能は曹丕の10倍ある。きっと国を安定させて、最終的に
大事を果たすだろう。もし我が子(劉禅)が補佐するに足りる人物
であれば補佐して欲しい。もし我が子に才能がなければ迷わず
君が国を治めてくれ」と言います。
これに対し、諸葛亮は、涙を流して、
「私は思い切って手足となって働きます」と答え、
あくまでも劉禅を補佐する姿勢を取ります。
また、劉備は臨終に際して諸葛亮に向かい、
「馬謖は言葉だけで実力が伴わない。故に重要な仕事を任せては
いけない。君はその事を忘れずにな」と言い残します。
(泣いて馬謖を切る)
□名言集
「事機」が有利に展開しているのに、それを生かせないのは、智者
とはいえない。
「勢機」が有利に展開しているのに、それに乗ずることができない
のは、賢者とはいえない。
「情機」が有利に展開しているのに、ぐずぐずためらっているのは、
勇者とはいえない。
立派な人間の友情は、温かいからといって花を増やすこともなけ
れば、寒いからといって葉を落とすこともない。
どんな時でも衰えず、順境と逆境を経験して、友情はいよいよ堅固
なものになっていく。
無欲でなければ志は立たず、穏やかでなければ道は遠い。
学ぶことで才能は開花する。
志がなければ、学問の完成はない。
治世は大徳を以ってし、小恵を以ってせず。
人の心をつかめる人は、敵を消滅できる。
古来、兵は戦を好まない。
勢力や権力を目的とした交際は、長続きさせることが、困難である。
自分の心は秤のようなものである。
人の都合で上下したりはしない。
時の流れがわからなければ、寛大であろうと、厳しくしようと、
政治はすべて失敗する。
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■諸葛亮孔明
諸葛 亮(しょかつ りょう)181年 - 234年は、中国後漢末期から
三国時代の蜀漢の政治家・軍師です。字は孔明(こうめい)です。
諸葛豊の子孫で、泰山郡の諸葛珪の子です。諡(し:おくり名)は
忠武侯(ちゅうぶこう)です。
蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相として
よく補佐しました。伏龍、臥龍とも呼ばれます。
今も成都や南陽には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が
訪れています。
妻は黄夫人です。
子は蜀漢に仕え綿竹(成都付近)で戦死した諸葛瞻(せん)。
孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、
西晋の江州刺史になった諸葛京がいます。
□書生時代
徐州琅邪郡陽都県(現在の山東省臨沂市沂南県)が本貫ですが、
出生地は不明です。
身長は8尺(後漢の頃の1尺は23cmで8尺は184cm)です。
その祖先は前漢元帝の時の司隷校尉の諸葛豊で、父は諸葛珪です。
泰山郡の丞(郡の副長官)を務めた人物ですが、諸葛亮が幼い時
に死去しています。生母の章氏も同様に幼い時に死去していますが、
父は後に後妻の宋氏を娶っています。
年の離れた兄には呉に仕えた諸葛瑾、弟には同じく蜀漢に仕えた
諸葛均、他に妹がいます。
まだ幼い頃、徐州から弟の諸葛均と共に従父の諸葛玄に連れられ
南方へ移住します。この時の行き先について『三国志』本伝では、
従父・諸葛玄は袁術の命令を受けて豫章(よしょう)太守に任命
されますが、後漢の朝廷からは朱皓が豫章太守として派遣され、
その後劉表の元に身を寄せたとなっています。
その後、諸葛亮は荊州で弟と共に晴耕雨読の生活に入り、好んで
「梁父吟(りょうほぎん)」を歌っていたといわれます。
この時期には自らを管仲・楽毅に比していましたが、当時の人間
でこれを認める者はほとんどおらず、親友の崔州平や徐庶だけが
それを認めていたといわれてます。
また、この時期に地元の名士・黄承彦の娘を娶ったようです。
黄承彦は「私の娘は色が黒くて醜いが、才能は君に娶わせるに足る」
と言い、諸葛亮はこれを受け入れました。
周囲ではこれを笑って「孔明の嫁選びを真似てはいけない」と囃し
立てたといいます。これ以降、不器量の娘を進んで選ぶことを
「孔明の嫁選び」と呼ぶようになりました。
□三顧の礼
この頃華北では、建安5年(200年)に曹操が袁紹(えんしょう)を
打ち破って覇権を手中にし、南進の機会を窺っていました。
劉備は袁紹の陣営を離れて劉表を頼り、荊州北部・新野(河南省
南陽市新野県)に居城を貰っていました。
諸葛亮は晴耕雨読の毎日を送っていましたが、友人の徐庶が劉備
の下に出入りして、諸葛亮のことを劉備に話しました。
人材を求める劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼み
ますが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物
ではない」と言ったため、劉備は3度諸葛亮の家に足を運び、
やっと幕下に迎えることができました。
これが有名な「三顧の礼」です。『襄陽記(じょうようき)』には、
劉備が人物鑑定家として有名な司馬徽(しばき)を訪ね、司馬徽は
「時勢を識るは俊傑にあり」として「伏竜」と「鳳雛(ほうすう)」
すなわち諸葛亮とほう統とを薦めたという話があります。
この時、諸葛亮は劉備に対していわゆる「天下三分の計」を披露し、
曹操・孫権と当たることを避けてまず荊州・益州を領有し、その後
に天下を争うべきだと勧めます。これを聞いた劉備は諸葛亮の見識
に惚れ込み、諸葛亮は劉備に仕えることを承諾します。
これを孔明の出廬(しゅつろ)と呼びます。
□赤壁の戦い
建安13年(208年)、劉表陣営では次男の劉琮が後継となることが
ほとんど決定的となり、長男の劉琦は命すら危ぶまれていました。
劉琦は自らの命を救う策を諸葛亮に聞こうとしていましいたが、
諸葛亮の方では劉表一家の内輪もめに劉備共々巻き込まれることを
恐れて、これに近寄らなかったのです。
そこで劉琦は一計を案じて高楼の上に諸葛亮を連れ出し、登った後で
はしごを取り外して、諸葛亮に助言を求めます。
観念した諸葛亮は春秋時代の晋の文公の故事を引いて、劉琦に外に
出て身の安全を図るよう薦めます。劉琦はこれに従い、その頃太守
の黄祖が孫権に殺されたため空いていた江夏(現在の湖北省武昌)
へ赴任する事にします。
劉琦の兵力は後に劉備たちが曹操に追い散らされたときに貴重な
援軍となります。
同年、劉表が死去。その後を予定通り劉琮が継ぎます。
諸葛亮は劉備に荊州を取れば曹操に対抗できるとすすめますが、
劉備はこれに難色を示します。
まもなく曹操が南下を開始すると、劉琮はすぐさま降伏します。
劉備は曹操の軍に追いつかれながらも、手勢を連れて夏口へ逃れ
ます(長坂の戦い)。
孫権陣営は情勢観察のため、劉表の二人の息子への弔問を名目に
魯粛(ろしゅく)を派遣してきていました。諸葛亮は魯粛と共に
孫権の下へ行き、曹操との交戦と劉備陣営との同盟を説き、
これに成功します。
この際、孫権から「劉豫州(劉備)はどうしてあくまでも曹操に
仕えないのか」と問われ、諸葛亮は
「田横(でんおう)は斉の壮士に過ぎなかったのに、なおも義を守
って屈辱を受けませんでした。まして劉豫州(劉備)は王室の後裔
(こうえい)であり、その英才は世に卓絶しております。多くの士
が敬慕するのは、まるで水が海に注ぎこむのと同じです。もし事が
成就しなかったならば、それはつまりは天命なのです。どうして
曹操の下につくことなどできましょうか」
と答えたそうです。
その後、劉備・孫権の連合軍は曹操軍と長江流域で対決し、勝利
します(赤壁の戦い)。
□入蜀
戦後、劉備たちは孫権・曹操の隙を衝いて荊州南部の4郡を占領
します。諸葛亮は軍師中郎将に任命され、4郡の内の3郡の統治に
当たり、ここからの税収を軍事に当てます。この頃、諸葛亮と
並び称されたほう統が劉備陣営に加わります。
建安16年(211年)、荊州の次に取る予定であった益州の劉璋より、
五斗米道の張魯から国を守って欲しいとの要請が来ます。しかし、
その使者の法正は張松と謀って、益州の支配を頼りない劉璋から
劉備の手に渡す事を目論んでいました。
劉備は初めこれを渋ったのですが、ほう統の強い勧めもあり、
益州を奪う決心をします。劉備はほう統・黄忠・法正らを連れて
益州を攻撃します。
諸葛亮は張飛・趙雲・劉封らとともに長江を遡上し、手分けして
郡県を平定すると、劉備と共に成都を包囲します(劉備の入蜀)。
建安19年(214年)に益州が平定されると、諸葛亮は軍師将軍・
署左将軍府事となります。劉備が外征に出る際には常に成都を守り、
兵站を支えます。また法正・劉巴・李厳・伊籍とともに蜀の法律
である蜀科を制定しました。
□夷陵の戦い
その後、劉備は曹操に勝利し漢中を領有しますが、荊州の留守を
していた関羽が呂蒙の策に殺され、荊州は孫権に奪われます。
劉備の養子の劉封が孟達・申儀の裏切りにより曹操軍に敗走して
成都に戻ってくると、劉備は劉封が関羽の援軍に行かなかったこと
と、孟達の軍楽隊を没収したことを責めます。諸葛亮は劉封の剛勇
さは劉備死後に制御し難くなるだろうという理由から、この際に
劉封を除くように進言します。劉備はその提案に従い、劉封を自殺
させます。
建安25年(220年)には曹操が死去し、その子の曹丕が遂に後漢の
献帝より禅譲を受けて、魏王朝を建てます。
翌年、劉備はこれに対抗して成都で漢帝を称して、即位して蜀漢を
建て、諸葛亮は丞相・録尚書事となります。
劉備が呉へ進軍を計画し、この戦いの準備段階で張飛が部下に殺さ
れるという事件が起こり、諸葛亮は張飛が就いていた司隷校尉を
兼務します。この戦いは最初は順調に行き、途中孫権は領土の一部
を返還して和睦を行おうとしますが、劉備はそれを聞かず、陸遜の
作戦にはまり大敗に終わります(夷陵の戦い)。
この戦いの後、諸葛亮は
「法公直(法正)が生きていれば、主上(劉備)を抑えて東征させ
たりはしなかっただろう。たとえ東征したとしても、このような
危機にはならなかっただろうに」
と嘆きます(法正は建安25年(220年)に死去しています)。
劉備は失意から病気が重くなり、逃げ込んだ白帝城で章武3年
(223年)に死去します。死去にあたり劉備は諸葛亮に対して
「君の才能は曹丕の10倍ある。きっと国を安定させて、最終的に
大事を果たすだろう。もし我が子(劉禅)が補佐するに足りる人物
であれば補佐して欲しい。もし我が子に才能がなければ迷わず
君が国を治めてくれ」と言います。
これに対し、諸葛亮は、涙を流して、
「私は思い切って手足となって働きます」と答え、
あくまでも劉禅を補佐する姿勢を取ります。
また、劉備は臨終に際して諸葛亮に向かい、
「馬謖は言葉だけで実力が伴わない。故に重要な仕事を任せては
いけない。君はその事を忘れずにな」と言い残します。
(泣いて馬謖を切る)
□名言集
「事機」が有利に展開しているのに、それを生かせないのは、智者
とはいえない。
「勢機」が有利に展開しているのに、それに乗ずることができない
のは、賢者とはいえない。
「情機」が有利に展開しているのに、ぐずぐずためらっているのは、
勇者とはいえない。
立派な人間の友情は、温かいからといって花を増やすこともなけ
れば、寒いからといって葉を落とすこともない。
どんな時でも衰えず、順境と逆境を経験して、友情はいよいよ堅固
なものになっていく。
無欲でなければ志は立たず、穏やかでなければ道は遠い。
学ぶことで才能は開花する。
志がなければ、学問の完成はない。
治世は大徳を以ってし、小恵を以ってせず。
人の心をつかめる人は、敵を消滅できる。
古来、兵は戦を好まない。
勢力や権力を目的とした交際は、長続きさせることが、困難である。
自分の心は秤のようなものである。
人の都合で上下したりはしない。
時の流れがわからなければ、寛大であろうと、厳しくしようと、
政治はすべて失敗する。
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