第11話 有名人レビュー 『小泉八雲』 | イーウィングのブログ

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第11話 有名人レビュー

          『小泉八雲』
 
今日ラフカディオ・ハーンこと『小泉八雲』についてレビュー
します。

 
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■何故この人を選んだか
この人の事をシたのは、「耳なし芳一」という物語を琵琶の弾語り
で聞いたからだと思ます。多分小学校の高学年のころだと…


 
それをいつだったか知りたくていろいろ調べてみたのですが…
1957年5月29日にNHKでこの物語の放送をされているという記事を
見つけて丁度そのころだと思います。正しくは分りませんが…
 
耳をむしり取られる怖い話でその作者が小泉八雲だと知りました。
しかもその人が日本生まれではなく、ラフカディオ・ハーンという
外人だという事に驚きました。
 
今考えるとちっとも驚くことはないのですが、日本人でないのに
平家物語、壇之浦の戦い、琵琶法師を何故知っているのかと不思議
に思ったものです。
 
そのころはテープレコーダを持っていた訳ではなく、ラジオを
聴いていてたまたまこの怖い話を聞いたのだと思ます。
それでも、数回聞いた記憶があります。
 
琵琶の音と、語りの声が耳の底にこびりついていて怖いという
気持ちがありながら、聴き入ってたと思ます。
 
ラジオ放送がされていたのですが、その怖い状況が目に見えるよう
な感じで、「怖いもの見たさ」というのがあったのでしょう。

 

 


 
かなり大きくなって、多分中学校の上級生か、高校生になってから
だと思ますが、小泉八雲についていろいろ調べた記憶があります。
そのころの記憶はあまり正確ではありませんが…
 
今回これを書くにあたっていろいろ調べ直してみました。
小泉八雲の怪談の中には、「耳なし芳一」以外にも「雪女」
「ろくろ首」「お貞の話」等があり、確かにそのうちの何件かを
読んだ記憶もあります。
 
またそれ以外にも、14年間という短い期間ではあったのですが
日本人として多くの活動をしていた事を知りました。
 
少し時間が出来れば、これらの本をひもといてみたいとは
思っています。
 
 
 
■小泉八雲とは
1850年6月27日~1904年9月26日
ギリシャ生まれの新聞記者、紀行文作家、随筆家、小説家、
日本研究家、日本民俗学者です。
東洋と西洋の両方に生きたとも言われています。
 
出生名はパトリック・ラフカディオ・ハーンです。
ラフカディオが一般的にファーストネームとして言われていますが
実はミドルネームです。
 
アイルランドの守護聖人・聖パトリックにちなんだファースト
ネームは、ハーン自身キリスト教の教義に懐疑的であったため
あえて使用しなかったと言われています。
 
1896年に日本国籍を取得して『小泉八雲』と名乗ります。
八雲は一時期、島根県の松江市に在住していた事からそこの旧国名
である出雲の国に関わる枕言葉の、「八雲立つ」によるものと
されます。
 
日本の怪談ばなしを英語でまとめた怪談を出版しました。
 
母がシチリア島、マルタ島生まれのギリシャ人でアラブの血が
混じっていたらしく、後に八雲自身、家族や友人に向かって
 
自分には半分東洋人の血が流れているから、日本の文化、芸術、
伝統、風俗習慣等に接してもこれを肌で感じ取ることが出来ると
自慢していたようです。
 
八雲は生涯を通じてアイルランドからフランス、アメリカ、
西インド諸島と放浪を続け、日本に住み着いたのですが
 
「いかなる土地にあっても人間は根底に置いて同一である事を
疑わなかった
」と言われてます。
 
シンシナイイでは州法を犯してまで混血黒人と結婚しようとし、
後に小泉セツと家庭を持つにさいしても何ら抵抗を感じなかった
ようです。
 
 
□経歴

1850年イギリス領であったギリシャのレフカダ島で、イギリス軍医
であったアイルランド人の父チャールズ・ブッシュ・ハーンと
キティラ島出身のギリシャ人の母、ローザ・カシマティの元に
生まれます。
 
生地レフカダ島からラフカディオというミドルネームがつきます。
 
1851年父の西インド転属の為、両親とともにダブリンに移住し
幼少時代を同地で過ごします。
 
父が西インド赴任中の1854年、精神を病んだ母がギリシャに帰国し
間もなく離婚が成立します。
 
以降ハーンは両親にはほとんど会うことなく、父方の大叔母サラ・
ブレナンに厳格なカトリック文化の中で育てられます。
 
この経験が原因で少年時代のハーンはキリスト教嫌いになって、
ケルト原教のドルイド教に傾倒するようになります。
 
1865年寄宿学校で回転ブランコで遊んでいる最中、ロープの結び目
が左眼に当たって怪我をし、隻眼となります。

 
以後左眼の色が右目とは異なって見えるようになり、左を向いた
写真ポーズをとるようになります。
 
1869年リバプールからアメリカ合衆国のニューヨークへ移民船で
渡り、シンシナティに行きます。
 
得意のフランス語を生かし、20代前半からジャーナリストとして
頭角を現しはじめます。
 
1884年ニューオリンズで開催された、万国博覧会の会場で農商務省
の官僚の服部一三に展示物などを、日本文化を詳しく説明され、
この時、高峰譲吉にあいます。
 
1890年アメリカ合衆国の出版社の通信員として来日しますが、
数日後契約を破棄し、日本の教師になります。
 
アメリカで知り合った服部一三の斡旋で島根県尋常中学校と
島根県尋常師範学校の英語教師に任じられます。
 
1891年1月中学校教頭、西田千太郎のすすめで、松江の士族の娘
小泉セツと結婚します。
 
それと同時に松江の根岸のうちに住むようになります。
その後11月には熊本市の第五高等学校の英語教師となります。
長男一雄も誕生します。
 
熊本転居当時の家は小泉八雲熊本旧宅として復元され、熊本市
指定の文化財とされています。
 
1896年東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職。日本に
帰化し小泉八雲と名乗ることになります。

秋に牛込区に移り済みます。
 
1902年に西大久保の家に転居します。
1903年に東京帝国大学を退職し、その年長女寿々子が誕生します。
 
1904年3月早稲田大学の講師を務め、9月26日に狭心症により東京の
自宅にて死去します。満54歳、お墓は東京の雑司ヶ谷霊園に
あります。
 
松江、熊本、神戸、東京と居を移しながら日本の英語教育の最先端
で尽力し欧米に日本文化を紹介する著作を数多く残しました。
 
日本では「雨月物語」「今昔物語」等に題材を取った、再話文学
で知られています。
 
 
□エピソード
16才の時に怪我で左眼を失明して隻眼となっていましたが、右眼も
強度の近視であったため、晩年には右眼の視力も衰え高さが
98センチもある机を使用して、紙を目に近づけランプの光を明るく
して執筆を行ったとわれています。
 
非常に筆まめであり、避暑で自宅を離れている間、後に残った
妻セツに毎日書き送った手紙が数多く残されているそうです。
 
ハーンは日本語が分らず、妻は英語が分らなかったため、それらは
夫婦の間だけで通じる特殊な、かな言葉で書かれていると
言われてます。
 
「原稿は9回書き直さなければ、まともにならない」とし、文章に
こだわったと言われてます。
 
著作の原稿料にはこだわっていたが、貯蓄には全く関心がなく、
亡くなった当時小泉家には遺産となるものがほとんど残って
いなかったと言われています。
 
妻セツは日本語が読めない夫のリクエストに応じて、日本の民話
伝説を語り聞かせる為、普段からそれらの資料収集に努めたと
言われてます。
 
熊本時代時間があると第五高等学校の裏にある、小峰墓地に通い
そこにある鼻のかけた地蔵「鼻かけ地蔵」をこよなく愛した
とされています。
 
八雲生誕の地、ギリシャのレフカダ島の詩人公園には日本の松江と
新宿から贈られた八雲の像があります。
 
コオロギの一瞬クサヒバリの鳴き声の美しさを讃えたと
言われてます。
 
 
□作品
小泉八雲の作品は数多くのものがあります。
来日以前の著作としても複数の書物があります。
来日後の著作としては
 
知られざる日本の面影
東の国より

仏陀の国の落穂
異国風物と回想
霊の日本にて

日本雑録
骨董
怪談
日本一一つの解明
天の奇譚

その他いろいろあります。
 
 
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