第10話 有名人レビュー 『ウォーレン・バフェット』 | イーウィングのブログ

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第10話 有名人レビュー

     『ウォーレン・バフェット』
 
今日は最も有名な投資の賢人『ウォーレン・バフェット』
についてレビューします。
 
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■ウォーレン・バフェットとは
ウォーレン・エドワード・バフェットはアメリカ合衆国の投資家、
経営者、資産家、慈善活動家。
 
世界最大の投資持ち株会社である、バークシャー・ハザウェイの
筆頭株主であり、同社の会長兼CEOを務めます
 
大統領自由勲章を受章しています。
 
バフェットは長期投資を基本スタイルとし、長期間にわたって同社
に高い運用成績をもたらしました。

 
ウォール街等の金融街ではなく、地元ネブラスカ州のオマハを中心
とした生活を送っているため、敬愛の念を込めて『オマハの賢人
と呼ばれる人です。
 
毎年開催される。バークシャー・ハザウェイの株主総会では、
バフェットと同社の副会長チャーリー・マンガーの話を聞くために
世界中から数万人にものぼる株主が参加しているそうです。
 
バフェットには早くから金儲けに対する眼力が備わっていました。
 
子供時代の競馬の予想屋や、新聞配達人から始まって世界的な株式
投資家にまで成長しました。
 
14才の時には早くも大金を手にし40エーカー、約5万坪の農地を手
に入れていました。
 
バフェットは億万長者です。しかしそれをひけらかすことは
なかったのです。
 
コカ・コーラを好んで飲み、ウクレレを引きながら、つつましい
生活を送っています。
 
世界で最も裕福だというのに、どこにでもあるような住宅に住み
車は古いモデルに乗っています。
 
バフェットこそ金融の世界において最も影響力を持った人物で
ある事には間違いありません。
 
バフェットはバークシャー・ハザウェイ等を通して多額の株式
投資を行い、大きな成功を収めました。
 
バークシャーは実質的にバフェットとチャーリー・マンガーが運営
する投資ファンドに近い性質を持っているとも言われています。
 
毎年の財務諸表に掲載されている「バフェットからの手紙」には
株価指数S&P500とバークシャー・ハザウェイの株価の比較を
載せています。
 
バフェットが1965年にバークシャー・ハザウェイの経営権を握って
から2015年までの約50年間に、S&P500の上昇率が約140倍だったの
に対し、バークシャー・ハザウェイの株価は2万倍という桁外れの
上昇を見せています。
 
運用成績としては複利計算で約21%のリターンを40年以上に
わたって出しているという事になります。
 
フォーブス紙の「アメリカ長者番付フォーブス400」では、
バフェットば1986年の5位以来、毎年ベスト10に入り続けている
そうです。
 
世界長者番付ではビルゲイツが13年連続1位となり、バフェットば
2位である事が多かったと言われてます。
 
バフェットの資産はおもに自身がCEOを務める、バークシャーの
株式を通じて形成されています。
 
バフェットの生活は質素で、1958年に31,500ドルで購入したオマハ
の郊外の住宅に今でも住んでいます。
 
バフェットはバークシャーから報酬として年間10万ドルを受取って
暮らしています。
 
2006年6月にバフェットは資産の85%にあたる、約374億ドルを五つ
のフィランソロビー(慈善事業)に寄付すると発表しました。
 
 
 
■経歴
□生い立ち
バフェットは1930年8月30日ネプラスカ州オマハで、
ハワード・バフェットとレイラ・バフェットとの間に生まれました。
 
バフェットは小さいころから富を築く才能があり、6才の時
コカ・コーラの6缶パックを25セントで仕入れそれを小分けにして
1缶5セントで売っていました。
 
また、ゴルフのロストボールを拾い集め、それらをパッケージに
して販売したり、有力馬の情報を掲載した、ステイブルボーイ
セレクション紙を発行し、アメリカ最年少の競馬の予想屋にも
なりました。
 
バフェットが株の売買に手を染め始めたのは11才の少年のころで
シティーズサービス社の優先株3株を1株38ドルで購入しました。
 
ところがその後27ドルに急落します。40ドルまで戻した時に売却
して少しばかりの利益を手にしました。
 
この株はその後200ドルまで上昇します。少年はひどく後悔し長期
に投資することの大切さを思い知ります。
 
12才の時、父親のハワード・バフェットが国会議員に当選し家族は
ワシントンDCに移ることになりました。
 
当初この引越しに納得出来なかったバフェットは家出して抵抗した
のです。が、しかしアメリカの首都に潜んでいる商売の可能性に
気づきその考えを改めたといいます。
 
一度に5紙の新聞を引き受け、毎朝500部を配達して、一人前の男性
の給料に匹敵する175ドルを稼いでいたと言われます。
 
わずか14才の時既に1200ドルを稼ぎだし、この資金でネプラスカ州
にある農地40エーカーを手に入れ、農家に賃貸しました。
 
 
□成功へのステップ
1947年にペンシルベニア大学ウォートンスクールファイナンス学科
に入学しましたが中退しています。
 
これがバフェットにとって極めて重要な転機となったと言われて
います。
 
もしこの時に一生懸命勉強して卒業していたならば、後の投資企業
バークシャー・ハザウェイを自ら設立することはなかったろうと
言われています
 
経営の理論を学ぶのはいかにも退屈で、その上、履修内容に中身が
なかったため、実践的な知識を求めるバフェットの思いを満足
させられなかったそうです。
 
リンカーン・ジャーナル紙の購読勧誘のアルバイトをしながら、
ネプラスカス州立大学で経営と経済を修めます。
 
19才でハーバードビジネススクールへの入学を希望しましたが
かなわなかったため、ハ―バード入学をあきらめ、
コロンビアビジネススクールに戻って、投資の権威ベン・グラハム
の元で金融を勉強することにしました。
 
ひとたび投資で生計を立てる決心をすると、バフェットは様々な
運用によって蓄積した資金と、もてるエネルギーの全てを株式投資
に注ぎ込みました。
 
1951年から56年の間に9800ドルの元手を14万ドルにまで
増やしました。
 
投資の神童が現れたというニュースが広まると、次第に自分の資金
を投資して欲しいとやってくる人たちが増えていきました。
 
投資業務を始めるとすぐ独自の投資戦略を生み出しています。
 
資産価値よりも絶対的に低い株価の会社を見つけだし、その株式を
長期間に渡って保有するという戦略です。

 
 
□転機
バフェットが強く影響を受けたのはベン・グラハムから得た
理論です。

 
グラハムはかってバフェットがコロンビア大学にいた時の指導者
であり、投資に関する名著『株式分析』の共著者です。
 
やがてバフェットは、予想される成長率と比較して割安な株式の
企業を探し出す方法を活用することで、グラハムの投資戦略を
さらに一歩前進させました。
 
この手法に必要なのはブランド価値のような無形の資産を評価する
力で、この面でもバフェットは時代の最先端を行っていた事
になります。
 
バフェットの投資戦略の成功はとにかく素晴らしいの一言です。
 
1957年から66年にかけてバフェットが経営する投資会社は同時期の
ダウジョーンズ工業株平均の成長率122.9%に対して驚いた事に
1156%もの収益をあげています。
 
バフェットは自ら1965年に買収した上場投資企業バークシャー・
ハザウェイの一点に集中をしています。
 
市場の相場には上げ下げの波がつきものですが、バフェットは株主
に対して長い時間の中で確実に収益を還元しています。
 
優良株を見極められる伝統的で神秘的とも言える才能から
「オマハの賢人」
という異名をもらっています。
 
1965年にバークシャー・ハザウェイに投資した1万ドルは2000年の
末には、5000万ドルにまでなっています。
 
同じ時期S&P500指標を信じた投資家が手にした収益はおよそ50万
ドルにすぎません。
 
この過程でバフェットはコカ・コーラ社や、アメリカン・エキスプ
レス社と言った株式をその底値圏内で買っています
 
その半面1990年代のインターネットブームと言ったマスコミが
煽り立てる株バブルへの誘惑には背を向けてきました。
 
バフェット自身は我が身に受けた拍手喝采から距離を置いて質素な
人で、バークシャー・ハザウェイの社有機でさえ、購入したのは
中古の小型機です。
 
これをもう少し高額のモデルに換え変えた時、
「インディフェンシブル(弁解の余地無し)」と命名しました。
 
オマハでどこにでもあるような住宅に住み、古い車に乗っている
のは有名な話で、数人のスタッフとともに文字どおり小さな
オフィスで仕事をしています。

 
一番の趣味は企業の年次報告書に目を通すことのようです。
 
これまで何千部も読んできたというのに、今でもそうすることに
よってその生き生きとした、関心を持続させているという事です。
 
 
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