第6話 有名人レビュー 『ビルゲイツ』 | イーウィングのブログ

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第6話 有名人レビュー
         『ビルゲイツ』
 
今日は「ウィリアム・ヘンリー・ビル・ゲイツ3世」について
レビューします。

 
ビルゲイツはアメリカ合衆国の実業家、慈善活動家、技術者、
プログラマ、作家、教育者です。

 
マイクロソフトの共同創業者兼元会長兼元顧問
ビル&メリンダ・ゲイツ財団共同創業者兼共同会長
カスケード・インベストメント共同創業者兼会長
 
イギリス女王より名誉騎士の称号を受けています。
 
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■ビルゲイツを紹介する理由
僕がコンピュータ業界で仕事をしてなかったら、多分気にも
しなかったと思ます。
 
僕はある時期パソコンOS CPM/86を使ってプログラムを開発
していました。

 
そのOSは素晴らしかったと思ます。
 
ところが、あっという間にMS/DOSに取って代わられてしまいました。
 
その犯人はビルゲイツだった。

 
コンピュータテクノロジーの発展過程において
特にパーソナルコンピュータの発展過程において
ビルゲイツほどの偉大な人はいなかった。
 
僕より9歳年下の彼はコンピュータテクノロジー、
商売に対する本能全て僕の数十倍上をいっていた。
 
 
 
■ビルゲイツについて
ビルゲイツがコンピュータテクノロジーの発見にどれほど貢献
したかは、彼の経歴をたどっていくと誰の目にも明らかです。
 
また、商売に対する本能の素晴らしさは伝説にもなっています。
 
IBMとの間でMS/DOSオペレーティングシステムのライセンス契約
を結んだ時、「マイクロソフト社は、その将来を約束された」と
言われてます。
 
マイクロソフト社は成長を続け、世界で最も輝かしい成功を収めた
企業になりました。
 
この間、ビルゲイツはWindowsの新しいバージョンを次々世に
送り出し、アップルやIBMの野望を打ち砕きマイクロソフトの覇権
を維持してきました。
 
インターネットが次世代の花形として成長する過程では、
ブラウザ戦争でネットスケープを退けました。
 
最大の試練となったのは、マイクロソフトに向けられた、独禁法
を扱う法律家の目だったといいます。
 
訴訟が長引き、辛い経験となったが、ゲイツはこれを乗り切り
その支配的立場を維持しています。
 
 
□経歴
ウィリアム・ヘンリー・ゲイツ3世は1955年10月28日シアトルで
生まれた。
 
ゲイツ家は裕福な家庭だったが「自分の事には一切お金を
使おうとしなかった」との事。
ゲイツは、教会の日曜学校に通い、聖歌隊で唄い、ボーイスカウト
にも入っていた。
 
ターザン物や火星人物を読み漁り、フランクリン・ルーズ・ベルト
やナポレオン、偉大な発明家などの伝記を沈読した。
彼は小学校を優秀な成績で卒業しています。
 
・学生時代
その後、シアトルにある優秀な私立学校、レイクサイド中学・高校
に入学しました。
 
レイクサイドではDECのPDP-10を生徒に貸しており、そこで
コンピュータに興味をもつようになりました。
 
13才の時、何人かの仲間と一緒に、レイクサイドプログラマーズ
グループを立ち上げ、プログラミングの能力でお金を稼ぎました。
 
レイクサイドでは2歳年上のポールアレンとともにコンピュータ
への情熱で意気投合したと言われてます。
 
高校生の時友人のポールアレンとともにトラフォデータ社を創立し
交通量計測システムを納入したり、給与計算システムの作成を
手伝ったりしました。
 
1973年にゲイツはハーバード大学に入学、そこで後にゲイツの後任
としてマイクロソフト社のCEOになるスティーブ・パルマーと同じ
寮に住むことになりました。
 
ハーバード大学では法律を専攻したのですが法学に熱中することが
出来ず何時間もポーカ―をやっていて、「残りの人生をどう使う
べきか」迷って落ち込んでいたともいわれています。
 
 
 
■成功の階段
□BASICインタプリタ
1975年ゲイツはハードメーカーはMITSに電話をかけ、実際にはまだ
何も作成していないBASICインタプリタについて
 
「私は移植に成功した、購入してくれないか」と持ちかけ
同社がBASICの販売に関心があると見抜きそれから移植を開始した。
 
8週間後、ゲイツとアレンの寝食を忘れたプログラミングの結果
BASICの移植は完了する。
 
その後ゲイツはハーバード大学を休学し、アルバカーキに引越して
アレンとともにマイクロソフト社を創業した。
 
 
□MS-DOSの開発
1980年IBMはパーソナルコンピュータ市場への本格参入を図ること
にし、IBM PCの開発に乗り出した。
 
短期に開発することを目指していたため、OSについては自社開発を
あきらめ、既存のOSを採用、改良することにした。
 
当時多くのパーソナルコンピュータのOSとして普及していたのは、
デジタルリサーチ社のCPM
だった。が…
 
OS使用を巡るIBMとデジタルリサーチとの交渉は不調に終わった。
 
そこでIBMはマイクロソフトにOSの開発を要請した。
 
マイクロソフトはシアトルコンピュータプロダクツで手にいれた
CPM互換OS 86DOSをIBM PC用にPC-DOSとして納入する。

 
このPC-DOSをさらに、MS-DOSという名前で他のパーソナルコンピュ
ータにもライセンス供給
することにより、現在の基礎を作った。
 
MS-DOSはゲイツのもくろみ通り、急速に業界標準になっていく
 
IBMが認めた事によって、すぐれた特徴を持つほかのOSが売り込み
をかけてきても排除することが出来た。
 
「標準を作るのは我々だ」がマイクロソフトの時の声となる。
 
アレンは病気が原因でマイクロソフトを辞めることになり、
リーダーとしてのゲイツの立場が明確になった。
 
マイクロソフトの急成長は間もなくウォールストリートの注目の
的となりその株価は1986年の2ドルから1996年の105ドルまで急騰し
ゲイツは億万長者になった。
 
 
□Windowsの開発
ゲイツはパロアルト研究所を見学して、いずれMS-DOSでは将来的に
通用しなくなることを
理解していた。
 
そのため、Windowsの開発に乗り出した。
 
そして、マッキントッシュの発表前に、アジア圏を中心にMS-DOSの
シェルであるWindowsを発表。
 
後に同社の開発したオペレーティングシステムとなった、
マイクロソフトWindows 95は、1990年代後半に世界1位の市場占有率
となり、彼の名は世界に知れ渡った。

 

■転機
□インターネット革命に対応
1990年代の初め、インターネット革命が急速に拡大し始めた時
マイクロソフトは一時、われを見失った。
 
洞察力に富むゲイツなのにグローバルなマーケットやWEBの可能性
に気付かなかった。
 
ネットスケープ社という企業が突然現れ、ブラウザと呼ばれる
見事な出来栄えのソフトウェアを無料で配布した。

 
マイクロソフトは必死で追撃を開始し、ネットスケープに対応する
ために、スパイグラス社からモザイクのブラウザ技術のライセンス
を手に入れ、改良を加えて、マイクロソフト製ブラウザ
「インターネット・エクスプローラ」として製品化した。
 
マイクロソフトはWEBテレビ、Eショップ、hotmail、フロントPAGE
というHTMLの編集用ソフトを創案した。バーミエ社なども買収した。
 
先を行く相手に追いつくことこそゲイツとマイクロソフトが得意
している事です。
 
マイクロソフトはデスクトップコンピュータ用のOSを独占している
かもしれないが、世の中にはもはやデスクトップPCだけを中心に
して回っている訳ではない。
 
マイクロソフトにもテクノロジーの進歩から取り残される危機が
迫っている。
 
マイクロソフトの支配が及ばないPDAや携帯電話がPCの将来の姿
かもしれない。
 
マイクロソフトの独占的地位が安泰かどうかの判断をするには
まだ時期が尚早。
 
ただ、世界最大のソフト会社を生み出したビルゲイツが戦わず
して下がることはないと思ます。
 
マイクロソフトの独占状態、ゲイツの姿勢を考えると、競争優位
を確立しそれを維持することにかけてゲイツの右に出るものは
ほとんど見当たらないという事は明らかです。
 
ゲイツの戦略的思考能力であらゆるライバルを打ち負かしてきた。
公の場ではあまり良くない印象をもたれ、変人のように思われて
いるが、カミソリの刃のように鋭い人物であると思ます。
 
 
□2000年以降、
2001年マイクロソフトのCEOをスティーブパルマに譲り会長に就任。
 
2008年7月にゲイツは第一線から身を引き、
ビル&メリンダ・ゲイツ財団での活動を重視すると発表する。
 
同基金は途上国の、エイズ、マラリア、結核の断絶や、教育、貧困
保健の水準の改善
などに尽力しており、今後はさらに寄付を拡大
する方針も明らかにしています。
 
ゲイツ財団はビル・ゲイツが、彼の妻メリンダ・ゲイツとともに
作った慈善団体です。
 
 
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