イスラム法上では棄教は死刑ですが、女性は終身刑としたり、棄教への刑罰に反対したりする改革派もいます。しかし、死刑を支持するムスリムが多数という事実があります。
一件穏健に見えますが、偽装棄教(タキーヤ)を認める学派の存在は気休めにもなりません。
もしかしたら、『イスラームをやめる自由』はないのでは?という質問がされるかもしれません。
確かに、イスラームの決まりでは、ムスリムがイスラームをやめることはできません。
しかし、心の自由はあります。
イスラームでは、ムスリム同士でも他人の内面の信仰をとやかく言うことを禁じています。
ですから、イスラームを信じなくなった人がいても、それが心の信条である限りは問題はありません。
ただ、そのことを広言することは、他の人にイスラームを捨てるよう求めることと同じですから、それは禁止しています。
それを、内部での争いを呼ぶ行為と考えているのです。
— 『イスラームという生き方-その50の魅力-』イスラーム文化センター、2007年4月20日、P.17「心の自由」
「心の自由がある」と言いながら棄教を広言できないのです。広言の程度も明確ではありません。そこがまた不安を煽ります。
棄教を、辺りを憚らずに言うことがどうして「他の人にイスラームを捨てるよう求めること」になるのか意味がよくわかりませんが、要は棄教を隠せということでしょう。
この説明をもっと簡単に言うとやっぱり、「棄教できない」 です。
イスラムは「心だけの宗教」ではないので、生活全般をムスリムのままで変えてはいけないならそれは棄教できないことと同じなのです。
今日本でも、宗教が政治社会体制と一体化しているイスラム教が勢力を拡大し続けています。書店でもイスラムをやさしく解説する本が目立ち始めました。
私が書店で見た優しい感じの入門書ではありませんが、内科医のfujipon様が、「イスラム教の論理」(著者:飯山陽)という本の紹介(感想)を書かれています。少し紹介します。
https://blogos.com/article/324974/?p=1
私たちはイスラム教の教義や論理について全く知らないにもかかわらず、私たちの価値観に反しない理解可能なイスラム教徒だけが「正しい」イスラム教だと決めつける傾向にあります。
テロなどの後、「良い」イスラム教徒と「悪い」イスラム教徒という風に私たちが区別しますが、これは非イスラム教徒側の価値観や尺度で見る勝手な憶測であるということです。
世界には様々な価値観を持つ人がいます。その中には私たちにとって好ましく、憧れの対象となるような人々もいれば、全く関わりたくないような人々もいます。私たちは一般に、それを「多様性」という言葉で肯定的に受け入れます。しかし世界にはこの「多様性」を否定的に捉え、世界はひとつの価値観に収斂されなければならないと考える人々もいます。
イスラム教という宗教は後者に属します。イスラム教徒ではない人にとってあまり嬉しいことではありませんが、それが事実です。イスラム教徒は従来の国家や地域の枠組みを越えた地球規模の拡大を目指すという意味では確かにグローバル化を志向しますが、それは私たちの考えるグローバル化とは全く異なるものなのです。
しかし、イスラム教徒が新しく侵入する場合には、私たちの社会が「多様性は善」としていることを利用して、その多様性の一部が自分たちムスリムだと言って入り込みます。
イスラム教徒にとっては国境も国民国家も民主主義もグローバル化も、所詮は「人間の産物」にすぎません。しかしイスラム教はそうではありません。イスラム教徒にとってのイスラム教は、神が人間に恩恵として与えたものです。神の恩恵であるイスラム教が、人間の産物である民主主義に優越するのは、彼らにとっては「当然のこと」です。
国境や国籍が意味をなさないと考えるところがグローバリストに好かれています。
私はイスラム教の研究者で、イスラム教について大学で教えたり、メディアで解説したり、ものを書いたりするのが仕事ですが、それらを続ける中ではっきりとわかったことがひとつあります。それは、日本人のイスラム教に対するアレルギーは非常に強い、ということです。
日本人の中にはイスラム教について単に知らないとか関心がないというよりは、それについては知りたくない、積極的に遠ざけたいという反応を示す人が少なくありません。
その理由のひとつは、イスラム教が日本人の考える宗教の枠組みの外にあるように感じるからかもしれません。日本人は概ね、宗教というのは個人の心の内面に関与し世界平和に貢献するものだと考える傾向にあります。
しかしもし、宗教というのは個人の心の内面「だけ」に関与し世界の平和「だけ」に貢献するものだと規定してしまうと、個人の行動に関与し世界を戦いへと駆り立てるような宗教は「宗教ではない」ことになります。
イスラム教はまさしく信者の行動を規定し、イスラム教による世界征服を目的とする宗教ですから、日本人的感覚で見ると「そんなものは宗教とはいえない」「そんな宗教は不要である」、といったリアクションが直ちにひきおこされます。
日本の中東イスラム研究者や日本人イスラム教徒らが「イスラム教は平和の宗教」と連呼する理由のひとつは、そう宣伝しないと日本人にはイスラム教が理解できないし、受け入れられないと考えているからです。しかしいくら日本人感覚にあわせてイスラム教をわかりやすいかたちに「改竄」しようとしても、イスラム教の真理は変わりません。
日本人が考える宗教は心の領域ですから、社会生活に影響を与えることはほぼありません。もともと八百万の神々が受け入れられているので、キリスト教やイスラム教もその中の一つくらいにしか考えていないのかもしれませんが、そうだとしたらあまりにも危険です。
その寛容さとイスラムへの無知を利用されて乗り込まれてしまったのです。
日本では信教の自由が憲法で保障されているから、イスラム教の棄教も大丈夫というあなた、彼らムスリムのコミュニティがそう思わなければ意味がないことに気付かないのでしょうか?次をご覧ください。
以前の記事を部分的に再掲します。
ソマリアからスウェーデンのイェーテボリに移民として来たQamar Cleasson(Qamar Osman)がFacebookに投稿したという動画についての記事です。
彼女は、クリスチャンに化けて、ソマリア人の改宗者を探す活動をしていました。
そして、コミュニティが怖くてイスラム教徒だと言い続けていた隠れクリスチャンを見つけると、それをFBに投稿してソマリコミュニティに広めているのです。
また、お金のない女性を買収してカナダへ行かせ、カトリック教会を舞台に難民たちの中に潜入させ騙して改宗させた自分たちの活動を自慢しています。そしてモスクから出てくる人々に褒められてメッカに送ろうと言われたと謙遜しています。
動画前半を訳すとこんな感じです。
汚らわしい女のうちの一人はK○○・A○○です。(動画では本名で出ています)
ハルゲイザのイサック(ソマリランド※のイサック族のこと)です。今から写真を見せます。
(※ソマリアから事実上の分離再独立を遂げたソマリランド共和国の首都)
彼女はヒジャブを被り私は絶対にキリスト教徒ではない、と言います。
『何人かの女性たちが私を騙して、集まりに連れていきました。』
『彼女たちは私の写真を撮って、だからクリスチャンだと言うのです。』
私(Qamar Cleasson)はK○○と教会で会いました。
教会ではキリスト教の信仰が教えられていて、彼女の子供達は洗礼を受けました。
嘘は言えません。彼女は洗礼を受けていません。
彼女は恥ずかしがり屋で大勢の前で受けたくないと言いました。
彼女は私に言いました、
『牧師さんは非公開で洗礼してくれるかしら?みんなに髪の毛が濡れるのを見られたくない。』
彼女は見栄えを気にしていたのです。洗礼を拒否したのではありません。
彼女はイスラム教徒として育ちましたので、洗礼を内密にしてほしかったのです。
彼女はキリスト教徒でした。
イサックの人々、ソマリランドの人々、habar yoonisの部族よ、
K○○・A○○はクリスチャンです。私のFBに写真を貼っておきます。
この女は「私の名前はK○○・A○○です。私はイスラム教徒でクリスチャンでは決してありません。」こう言ったのです。
私とK○○は教会で初めて会いました。
私たちはこんな風に『ハレルヤ、ハレルヤ、神のお恵みがありますよう』にと言っていたのです。
彼女はクリスチャンでした。私はクリスチャンの彼女を3年間知っていました。
(~後略~)
西側は、イスラムフォビア取り締まりにしか興味がなく、名指しされた改宗者は恐怖から身を隠すことを余儀なくされ、警察はリソースが足りなくて何もできないと言っているそうです。
こういう社会って怖くないですか?
社会は一人一人が作っています。こういう集まりがあちらこちらにできてくると、恐怖に縛られ、公権力よりも地元実力者の支配下に自らの意思で入っていくことになるのです。
日本では外国人に慣れていないせいか彼らに及び腰で法の適用が甘いです。
国民主権と言いながら、実際には裁判官がさじ加減であり得ないような判決を出す国です。
イスラム関係の事件は、上記のソマリア人のように現地の警察が無視するのです。
日本だって同じです。ご記憶ありますか?
「悪魔の詩」訳者殺人事件は恐ろしい事件なのに警察はまともに動きませんでした。
原作者はイギリスの警察が保護していて大丈夫でも、それを翻訳した人たちが複数殺された事件です。日本では翻訳した筑波大学の教員が、見せしめに殺されました。外国人ムスリムの犯行が疑われるも外交関係というか、ムスリムが怖くて日本政府は何もしませんでした。
(日本政府が強く出る相手は従順な日本人に限定されています。)
なぜ?という問いに論理的な答えがあり、それを基に動くのが私たちの暮らす社会です。
なぜ?という問いに「神がそう言った」という社会を日本に作らせてはいけないと思います。
「今まで日本人は外国から様々なものを受け入れて取捨選択や融合によって独自の文化を築いてきた」、そのような自信はイスラム教を受けいれる経験としては全く役に立ちません。
イスラム教側にそのような文化や考えがないからです。
これは良し悪しではなく、事実として真面目に受け止め考えなくてはいけないことです。
私達と全く価値観が違うのです。話せばわかるという思い込みはむしろムスリムに失礼です。
そのままのイスラムを認めて受け入れれば、日本の統治が行き届かない場所が増えるでしょう。
前出の著者でイスラム研究者の飯山陽氏のこちらの記事もぜひご覧ください。
なぜイスラム教では「宗教に強制なし」なのに「棄教=死刑」なのか?(2019年2月1日金曜日)
また、日本人がハラルフードを金儲けだと考えていることに対するツイートもあります。
中国共産党も金儲けが好きですが、私達より利口ですね。
「イスラム教→ハラール→金」みたいな認識しかしていないといつか必ず手痛いしっぺ返しを受けると思う。こういった記事を通してイスラム教を金儲けの手段としか考えていない人たちの存在が垣間見えると、ぞわぞわする。https://t.co/q5Ne531eke
— 飯山陽 (@IiyamaAkari) 2019年4月5日
彼女は、『「アジアのイスラム教徒は穏健だ」という思い込みはイスラム過激派には一切当てはまりません』と述べています。
日本は世界最大のムスリム人口を抱えるインドネシアからも嬉しそうに移民を奨励しています。インドネシアはFGM(女性器切除)が盛んですが、彼女たちの後遺症を日本の公的保険でカバーしますか?インドネシアでは国中にイスラム過激派のスリーパー(実行までは一般市民として生活する過激派)がいます。もう日本にもスリーパーはいるかもしれませんね。
今私たちは離島ではなく本土で領土を失いつつあることに気付きましょう。