Okinawa通信

2010年1月。30年以上住んだ東京から引越し、沖縄生活をスタート。
ハイ、とりあえず、ほぼ楽しく生活してます、の面白おどろき沖縄物語。
田舎者(私も含めて)の集まりでかつ刺激的な大都市・東京とは、
かなり違ってますねえ、ここは。


テーマ:

Okinawa通信338



● その名 「ゴサマル」 を聞いたのは、ウチナンチューたちとの酒席のときでした。



  琉球史のなかでも、人気の高い英雄らしいのですが、どういう字なのかも分からず、聞いたままになってました。
  「護佐丸」 と書くのを知ったのは、最近になってからです。



沖縄流に言うと 「ヤマト」 (つまり本土) でも、戦国時代には、信長、秀吉、家康や、信玄、謙信など、英雄たちがいますが、
琉球史においてもやはり、戦国時代に英雄が多いようです。


沖縄の戦国時代といえば、「三山 (さんざん) 時代」。
14世紀の前半から、中山によって統一がなされた1429年までをいいます。
ヤマトの歴史でいえば、南北朝時代から室町幕府時代で、ヤマトの戦国時代がはじまる半世紀から一世紀ほど前のこと。




Okinawa通信-三山

                  沖縄の三山時代。ウィキペディアより。
                  中山 (ちゅうざん)は、現在の首里(那覇市)から
                  沖縄市、うるま市、読谷村、恩納村の下側あたりまで。


                  現在の沖縄の郡名、
                  「国頭(くにがみ)郡」 「中頭(なかがみ)郡」、
                  「島尻(しまじり)郡」 も、
                  ほぼこの 「三山」 に相当しているとのことだ。




● 沖縄の歴史に興味がない方には、きっと、ながい退屈な話です(笑)。


  しかし、なぜ 「護佐丸」 が英雄として人気があるのか、その理由がわかると、いわばとっても日本人的で、
  やはり琉球人とヤマト人が、日本民族としての感情でつながっているなぁ …… と (ちょっと大げさですが) 思ったしだい。


さて時は、14世紀初め。
沖縄本島各地の豪族たちが、それぞれ城 (ぐすく) を構えて、「按司 (あじ)」 と称していました。
「按司」 は、国王の分家という説がありますが、「主 (あるじ)」 から来ているのではという説もあり、それが最もピンとくる。

そしてその 「按司」 たちを統率する強い王があらわれ、それが、三山の王となって、天下統一をねらっていたわけです。


「山」 といっても、それぞれに山があるわけではなく、いわば 「オレの島」 みたいな意味。
当時の明国の皇帝から、すでに冊封使を迎えていた中山王が、なかでも勢力が強く、それが三山を統一するのですが、
その統一をなしとげるのは、実は、それまでの中山王家ではありません。


琉球王国を統一した英雄として、おそらく沖縄でもっとも知られ人気の高い人物が、「尚巴志 (しょう・はし)」 です。
(尚巴志の名がついたTシャツをよく見ますし、尚巴志ハーフマラソンなんかもあります)


実はこの尚巴志、中山の人間ではありません。
南山に位置する佐敷 (さしき) という地域の按司、尚思紹 (しょう・ししょう) の息子です。
まさに戦国時代、この尚巴志が、中山王を破って、新たな中山王となり、父親をその初代の王としました。(自分は第二代になっている)


そしてこの尚家が、中山王になってから、琉球の統一がはじまります。
父親の在位中に、まず北山を滅ぼし、そして父亡き後、自分が即位してから南山を滅ぼし、念願の琉球王国を樹立します。


この、琉球統一の戦いに、尚巴志の最も強い味方、君臣として頼りにされたのが、「護佐丸」 なのです。


正式には、護佐丸盛春 (ごさまる せいしゅん・or もりはる)。
もともと読谷の按司の家に生まれた護佐丸は、めきめきと頭角を現し、尚巴志に認められ、北山討伐のために同じ読谷の座喜味 (ざきみ) に移るよう言われます。
そして、現在、世界遺産のひとつとして残る、座喜味城を築城。 そこの按司となり、北山討伐に大活躍をします。

その後は、南山討伐のため、また北から首里を守るために、首里城に近い中城 (なかぐすく) に移ることを命じられます。
ここでも、やはり世界遺産となる、中城城を築城し、その按司となります。

この中城城、ちょっと前のブログでも書きましたが、のちにペリー一行が訪れ、その築城技術に驚き図面を描いた城です。
護佐丸は、武士としてだけではなく、築城家としても、とても優れた人物だったようです。




さて。
尚巴志の王家は、第1代の尚思紹から、2代の尚巴志、3代の尚忠、4代の尚思達、5代の尚金福、6代の尚泰久、7代の尚徳まで。
7代で滅びますが、その間、わずか69年です。


尚巴志 (在位18年、享年68歳) の死後、きっとその息子たちの間でモロモロあったのでしょうね。
この7代を、琉球史では、「第一尚氏」 と呼んでいます。


ちなみに、この第一尚氏を滅ぼしたのは、(沖縄本島の最北端の上の)伊是名島 (いぜなじま) の出身者、
通称 「金丸(かにまる)」 と呼ばれている人物で、6代尚泰久王に、よくできる家来としてつかえていました。

その金丸が、7代の尚徳王をほろぼした後、(きっと) 知力・武力・人望とも備わったいたのでしょう (周囲から勧められるカタチで)、
「尚円 (しょう・えん)」 を名乗り、琉球国の王として君臨します。

この尚王朝が、明治までつづいていきますが、これを 「第二尚氏」 と呼んでいます。



● 再びさて。 話はもどり、護佐丸のこと。


  護佐丸は、尚巴志亡きあとも、代々の国王に、信頼される重臣、忠君としてつかえます。
  ちなみに、尚巴志は、護佐丸の叔母の娘を妃としてもらい、二人は縁戚関係を結んでいたほどでした。


しかし時代は、三山を統一して日が浅く、まだまだ我こそ琉球国王にと企てる、力のある按司たちもいます。
中山の勝連半島 (私のウィンドサーフィンのゲレンデ、海中道路のある所) の按司、 「阿麻和利 (あまわり)」 もその一人。


勝連半島は、良港をもち、明国や東南アジアの国々との交易で利益をあげていました。
力で勝連城の按司をうばった阿麻和利は、尚王家をおびやかす強力な存在だったようです。


政略結婚でしょう、尚泰久の娘、百度踏揚 (ももとふみあがり) が、この阿麻和利に嫁いでいます。
ちなみに、尚泰久の妻は、護佐丸の娘、という関係ですので、阿麻和利は、護佐丸の孫娘をもらった、という間柄になります。
これにより、尚泰久王は当時の強力なふたりの按司と、縁戚関係を結んで万全な体制を築きました。


ところが、その7代の尚泰久王の時代、
琉球史で 「護佐丸・阿麻和利の乱」 と呼ばれる変事が起こります。


首里城の奪取を秘かに企む、勝連城の阿麻和利。 それを警戒して、人馬の訓練をしている中城城の護佐丸。
その様子を知った阿麻和利は、自分の妻の父親である尚泰久に、「護佐丸は、首里城を襲う準備をしています」 と、讒言します。


その言葉を不信に思いつつも、中城へ見にやらせた尚泰久王は、人馬訓練の様子を伝える家来の言にそれを信じ込み、
阿麻和利を総大将とした護佐丸討伐軍を、中城城へと送ることになるのです。


国王軍が攻めて来たことに驚く護佐丸でしたが、大将の阿麻和利の姿を見て、その意図を知ります。
自分が亡きあと、阿麻和利は必ずや首里城を攻めるだろうと思った護佐丸は、戦うことを放棄します。

国王軍と戦うのを良しとしない、忠君であろうとしたこと、
さらには、ここで戦って国王軍の勢力を弱めてしまっては、この後に阿麻和利との戦いに不利になるだろうと考えたこと、などが理由だといいます。


そして護佐丸は、妻と自害し、まだ幼い三男を乳母に託して南部のほうへと逃します。

(この三男が成長して、第二尚氏の初代・尚円に見いだされ、その子孫は繁栄します)


護佐丸を倒した阿麻和利は、いったん勝連城にもどり、首里城攻めの準備をします。
が、それを察知した阿麻和利の妻で尚泰久の娘でもある「百度踏揚」が、勝連城をのがれて首里城に知らせます。、それにより、国王軍は勝連城を攻め落とします。
阿麻和利も、ここで死にます。



Okinawa通信-百度

                    百度踏揚の画像サイトより。
                    (ももとふみあがり) という、

                    内地の人間には想像外の名前。
                    ウィキペディアによると、
                    悲しい人生をおくったようだ。



こういったことから、
その卓越した武士・軍師としての力量だけではなく、築城家としての名声、領民からの敬愛、

さらには、自害してまで王家を守ろうとした忠節、その誠実な人柄から、

沖縄では今でも、尊敬すべき英雄として「護佐丸」を、中城按司・護佐丸盛春(ごさまるせいしゅん)の名を、あげるとのことです。


長い話になりましたが、
琉球王国の歴史については、ヤマトの歴史ほど、その史料は残っていないようです。
ここに登場した、尚巴志や護佐丸や阿麻和利の肖像画も残されていない。


この護佐丸の話も、
琉球王国の最初の正史である 「中山世鑑」 に記述がないらしく (その部分が欠本なのだとも伝えられる)、
護佐丸の子孫たちが繁栄した時代に編纂されている 「中山世譜」 などの史書をもとにしていることから、
本当のところどうだろう? と思われているそうです。


つまり、護佐丸謀反は本当だったのでは …… と、明治以降、英雄否定説などいろいろ言われて来たらしい。

その中でも、当時、尚泰久の有能な家来であり、後に、その尚王家をほろぼし、第二尚氏の初代・尚円王になった金丸が、
実はこの一連の乱の裏にいて、企んだのではないか………という疑惑ものぼっているらしい。


私としては、その説にもっとも魅かれているのですが (笑)。



(実はこれまでの話は、この本を読んで書いたものです)




Okinawa通信-護佐丸全集

               『護佐丸全集 上巻   中城按司 護佐丸盛春』
               新垣正雄 編著作  1996年刊
               四六判 ハードカバー 518p


               編著者の新垣正雄さん、1923年生まれ。
               ネットで調べたのですが記載なし。
               本の履歴を見ると、学者でなく、
               中城村生まれで、最終職歴は中城小学校校長。
               いわゆる郷土史研究者のようです。

               この本は、彼の生地からも想像できるように、
               あきらかに護佐丸礼賛。
               明治以降に出てきた「護佐丸の忠君」否定説に
               真っ向から対決するために書いた本ですね。


               学術書でもあるのですが、学者ではないからか、
               とても分かりやすい本で、
               その構成や彼自身の論旨の展開、読みやすさなど、
               編集者としての才能が感じられる優れた本だと思う。

               ちなみに、『上巻』 とあるけれど、
               どうやら 『下巻』 は出なかったようだ。
               しかしこの 『上巻』 だけで十分に意は尽くされている。




● 以下は、護佐丸の画像サイトからの写真です。


  前述のように、この時代の史料は乏しく、肖像画も残されていない。
  なので、これらは後の時代の想像画です。




Okinawa通信-護佐丸4

             護佐丸 …… これは、いくらなんでもヤマトでしょう ……。
             ちょうどヤマトの鎌倉・室町時代の武士の絵そのまま(笑)。
             そういえば、ヤマトの戦国時代には鉄砲が登場するからか、
             この手の肖像画はないのでは……。



Okinawa通信-護佐丸1

                      たぶん、こんな感じでしょうね、
                      中城按司 護佐丸盛春は。


Okinawa通信-護佐丸2

                     人気がある英雄だからか、
                     こんなキャラクター絵もあるようだ。


Okinawa通信-護佐丸3

                   そして、何のお祭りなのか不明だけれど、
                   護佐丸に扮した子どもたちも。




● 長い長いおつきあい、ありがとうございました (笑)。






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