お昼から敦賀の旧港にある『人道の港敦賀ムゼウム』に出かけてきました。パネルや映像展示が主体で、施設としては少し豪華な緑地の休憩所という感じです。それでも数カ国語での音声解説やパンフレット類も用意されていて、職員も常駐。平日にも関わらず団体さんをはじめ客足が途絶えませんでした。

 敦賀はウラジオストクなどとの航路によりアジア、ヨーロッパへの玄関口として、政治家、文化人、さまざまな人々が足跡を残しました。また同様に大陸からもこの敦賀を訪れた人々もいました。その中にはヨーロッパで悲劇的な状況を味わい、この敦賀でようやく安息を得ることができた人もいました。
 1920年~22年にはロシア革命の影響で孤児となったポーランド人の子どもたち(彼らの先祖はロシア帝国によるポーランド併合によって政治犯とされシベリアに抑留された者たちでした)763名と付添人39名がウラジオストクを経由して敦賀港に上陸、体力の回復をまってアメリカ、ポーランドへと送り出されました。

 さらに1939年のドイツとロシアによるポーランド侵攻によりポーランドからリトアニアに逃れたユダヤ人たちは、カウナスの日本領事館で杉原千畝氏によるビザ発給を受け、シベリア鉄道でウラジオストクに至り、そこから海路で敦賀港に上陸しました。彼らはシベリア鉄道内でも略奪や連行という苦難を経ていたので、日本人の親切な対応に感激し、敦賀が「天国に見えた」と証言しています。資料館には困窮していたユダヤ人が時計店に買い取ってもらったスイス製の時計などが展示されていました。




 『人道の港敦賀ムゼウム』の横にあるモニュメント「自由への扉」。ヘブライ語とポーランド語でもそう書かれています。




 かつて敦賀港の船着場があった方向から敦賀市外を眺めてみました。船から敦賀をみたユダヤ人が「天国に見えた」と言っていたのを思いながら。




 敦賀が大陸と航路で繋がっていたことを表したタイル画。右隅の樹木が植えられている辺りが当時の船着場の辺りになります。


 今も変わらず反ユダヤ主義はロシアやヨーロッパを中心に横行していますが、それに左右されない対応が、近年の東日本大震災の際のイスラエル医療チームの派遣に繋がっていきました。この件で当時の駐日イスラエル大使(現・外務副大臣)のニシム・ベンシトリット氏が「私たちはスギハラの恩を忘れてはいない」と発言しています。「反・嫌・ヘイト」ではない愛の行為こそ、後に自らを救うことになるという重大な歴史の教訓を覚えていたいものです。