「とん、とん、とん」
かすかな音で目が覚めた。夜中の二時過ぎだ。
とん、とん、とん。確かに誰かが出窓をノックしている。気味が悪いが、そっとカーテンを引いて目を凝らした。擦りガラスごしの薄い月明かりの中に、見覚えのない黒い大きな犬が蹲っている。
こいつが足で窓を叩いたのだろうか。
窓を押し開けた。こちらを見上げた顔は……犬ではない! 丸くて開いた大きな耳。つぼまった顔にぴんと伸びた長いひげ。にゅっと出た門歯。ネズミだ。ネズミのお化けだ。そいつが世にも哀れな声を出した。
「あんさん、わたいの子ども知りまへんか」
「そんなん、知らんで」
「かわいい嬢や坊やたちが、みんな、おらんようになってもうて……あんさん、ほんまに知りまへんか」
わたしをさも恨めしげに見詰める。
目が覚めた。あたりが白み、掛け時計が六時前を指している。その針が水の中で見るように揺れ始めた。猛烈な悪寒に襲われ、ガタガタと震えだす。枕もとの体温計で計ると四十度もある。
二日間ようすを見たが、一向に熱が下がらないので、妻にかかりつけの医院へ連れていってもらった。医者は念のためにと、鼻の粘液を採ったが、インフルエンザの反応は出なかった。
「とにかく、血液検査をしましょう。明日の朝には結果が出るようにしておきます」
検査の結果は、肝機能障害を起こしていた。白血球が二割がた多く、炎症の目安となる「CRP」が許容量の六倍もある。腹部のエコーを撮った医師は深刻な表情になった。
「たぶん、胆管に細菌が入り込んで増殖してると思われます。抗生物質の点滴を三日間やってみましょう」
三日がたち、熱が三十八度台になり、白血球の数も正常になった。医師は「この治療が有効そうだから」と続けてくれた。
二週間、点滴を続けてわたしはすっかり回復した。血液検査の結果でも、すべての数値が正常値内におさまった。
「これで、治療は終わりです。抗生物質がある時代でよかったですね。それに、もう少し来るのが遅れたら危なかったですよ」
笑顔でそう言う医師に、なぜ細菌がわたしの体に入ったのかと尋ねたが、「さあ……」と首をひねるだけだった。その時、「わたいの子ども知りまへんか」と夢で訊ねてきた大きな母さんネズミのことを思い出した。
高熱が出た日の四日前、ストーブと扇風機の入れ替えをしようと、裏庭に置かれた物置を開けた。〞鼻のひん曲がりそうな〟臭気が充満している。そこら一面がネズミの糞だらけだ。隅でちょろちょろするネズミの子どもが見えた。こちらにいる。あちらでも走っている。「こんな食べ物のないとこで、なんでや」。不審に思ったが、すぐに合点がいった。一年前に死んだ飼い犬のドッグフードの残りを、ここへ仕舞い込んで忘れていたのだ。
いるのは子ネズミばかりだ。乳離れしたばかりと思われるようなのまでがいる。物置はスチール製で隙間はないはずだが、子どもなら頭さへ入れば、ほんの僅かの所から進入してこられるのだろう。ネズミも子どもは本当にかわいい。薄茶色のきれいな体毛で、大きな澄んだ瞳をしている。ペットにしたいぐらいだ。
だが、ネズミといえばペストだ。それに戦後すぐの時代には跋扈(ばっこ)して、みんなで必死に退治したものだ。だから、「ネズミは不衛生の権化。なにがなんでもやっつけねば」がわたしの頭に強烈にインプットされている。子どもでもかわいいからと、見逃すわけにはいかない。
物置の戸を閉め、スーパーへ「ネズミ捕りホイホイ」なるものを買いにいった。ゴキブリ捕りと同じで、入ったら最後、ひっ付いて出られないという仕掛けだ。これを二つ置いたら、入るわ、入るわ。捕らわれているやつの体の上を走って、右から左へ通り抜けてしまうのまでいる。そんなやつや、初めから入らないのを、かわいそうだが「南無阿弥陀仏」と唱えて、箒で叩きつぶした。「キュッ」と断末魔の声を出した。ホイホイに入ったのも含めて、全部で二十匹ほどもやっつけたろうか。
「みんな、あそこへ行って、お腹いっぱい食べておいで」
母さんネズミはそう言って、子どもたちを送り出した。それが、帰ってこない。「かわいい子どもたちを殺された」。そう疑って、わたしを訪ねてきたのだ。
わたしがもう少しで死にかけたのは、殺した子ネズミが持っていた細菌が胆管に入って増殖したのか。はたまた、わたしを恨みに思う母さんネズミの生霊にとり憑かれたのか。いずれにしろ、あんなかわいい子ネズミを大量虐殺した祟りに違いない。