平成二年、夏。

 木彫家の父は、七十八歳になってもまだ仕事を続けていた。槌音と合奏するかのように、アトリエの横の気で蝉がしきりに鳴いている。その声が聞かれなくなったころ、父はときどき食べたものを喉に詰まらせるようになった。

 

 師走に入って回数が増えてきたので、近所の医院でレントゲンを撮ってもらった。幸いにも異常なしとのことで、本人や母や私たち家族もほっとする。だが、症状はだんだんとひどくなっていき、翌年の四月半ばにはアイスクリームぐらいしか食べられなくなった。心配になってきたので医師である従兄弟に電話をかけた。彼はえっと絶句し、「そら、すぐに大きな病院へ行かなあかん。それも外科や」と先輩のいる大きな所を紹介してくれた。

 

 検査の結果、食堂に癌が見つかった。近所の医院では、レントゲンを撮っている最中に機械が故障するトラブルがあり、そのために見過ごされたのだろうか。

 

 父は二度も肺結核を患っているので、担当医に「この肺では手術は無理。余命、三か月」と宣告されてしまう。私はさんざん泣いた。だが、涙が枯れてからは不思議と冷静でいられた。それは父とは馬が合い、精いっぱい付き合ってきた、という満足感があったからだろう。

 

 そのころ癌は本人に告げないのが慣わしだったので、医者と口裏を合わせ、「潰瘍があるだけだ」とした。もし、父がこのことに疑いをもてば、私もずいぶん辛かったことと思う。だが、それまでの人生を仕事のことしか考えずにやってきた父は、最期まで本当の病名には気づかなかったようだ。

 

 四月末に入院してからは、水も喉を通らず点滴だけで命をつないでいたが、一言の愚痴もこぼさなかった。医師や看護師の言うことには、何でも「ハイ、ハイ」と従い、周りを困らせることは一切なかった。

 

 だが、私が泊り込んだ日の真夜中、ふと目を覚ますと、隣のベッドから、「うーん……なんとか早いこと、治してくれんかなあ」と、しぼり出すような声が聞こえてきた。なんともならないことを知っている私は応じられない。鼻の奥がつーんとなった。父が自身の癌を疑っていたとは思えないが、心の中にはもどかしいものがあったのだろう。

 

 翌日から父は「早く治れ」と祈るように、ベッドの上でデッサンを始めた。最後の日をできるだけ一緒に過ごしたいと、毎日のように見舞いにいっていた私の顔を、いろんな角度から描いた。紙の上で木彫りをしているのだ。私も父に教えてもらえる最後の機会と思い定め、モデルをしながらいろいろな疑問点を質問した

 その十年ほど前に京都の大丸百貨店の美術部で、さる大家が彫った親鸞の像と父のそれとが並んで陳列されたことがある。価格は桁違いだが、担当の人は「顔はこちらの先生の方がいいです」と父の作品を指さした。父は無名で終わったが、顔を彫ることだけはことほどさように上手だった。

 

 梅雨に入ったころから父は目に見えて衰えていった。だが、休み休みでもエンピツは離さない。

「顔いうのは目、鼻、口なんかの道具立てのあるとこよりも、ないところ、例えばここの顎へかけての斜めの面の作り方とかが、難しいんやな。そんなこと今ごろわかったわ。なんぼやっても、これでええ、いうことはないもんやなあ」

 私の顔を描きながらつくずくと言う。そして、「こんど、ノミを握ったら、自分の顔の彫り方も変わるで」となおも創作への熱いおもいを語った。

 

 七月に入り「蝉は鳴いたか」としきりに尋ねたのも、アトリエに戻りたいおもいが強かっただろう。だが、その年の蝉は遅く、なかなか報告できなかった。

 

 月の中ごろだった。抗がん剤治療の副作用で血液が中途半端に固まり、肝のようなものを時折吐き出していたが、それを喉に詰まらせた。応急措置で一命は取りとめたが、それ以降エンピツを持つ体力はなくなった。また看護師におしめを当てられ、「ここでしても、いいですよ」と言われたが、支えられてでも最後まで自力でトイレに通いたがった。

 

 だが十九日の夕方、ついに力尽きる。枕もとのメモにひょろひょろとした文字で「ここでしてもいいですか」と書いて、看護師に示した。一時間後、意識がなくなり、真夜中に足がゴムマリのように腫れて息を引き取った。

 

 遺骸はアトリエに安置した。そして夜明け。「チチチチ」とこの夏初めて蝉が渡り鳴くのを、私は一人で聞いた。