筆者の陶潜(とうせん)は、字(あざな)の陶淵明のほうがよく知られています。日本語で「桃源郷」といえば夢のように美しいユートピアのことで、非日常のなかにある別世界のことですね。その語源になったのがこの「桃花源記」ですが、どうも陶淵明は、そのような空想世界を描くことにより、それを探しても見つかることのない当世の現実を、暗に批判したかったようなのです。

 

 陶淵明(365~427)は、時代でいうと、晋(東晋)が倒れて南朝の宋(420~479)が建つころにかけての人でした。官僚としては寒門(名門ではない家柄)であったため下級役人に甘んじ、その屈辱感から短期間で職を辞して、故郷の田園へ帰っています。当時はまだ、試験で官人を選抜する科挙がなく、門閥貴族が幅を利かす不条理な社会でした。また、なにより王朝の転換期にあたり、止むことのない戦乱と、それによる国土の荒廃を目の当たりにしたことから、陶淵明の想像のなかに「俗世を隔絶した美しい理想世界」が焦点を結んだと言えるでしょう。

 

 陶淵明のみならず、当時の知識人は「俗世を離れて、清らかな環境に身を置きたい」という共通した願望をもっていました。「竹林の七賢」に代表される隠者の姿は、当時の荒々しい世相と無関係ではなく、漢代以来の儒教道徳がまるで役に立たなくなった現実から、超俗的な老荘思想に近づいたものでしょう。彼らの場合、隠者といっても多くは実社会に役職を残していますので、表向きはともかく、その精神だけは「清談」を論じたいという、中国の乱世を生き抜く文人の処世術として、後世にその模範を示したと言えます。

 

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