△福島交通飯坂線の泉駅前にある本社

福島県の地場ゼネコン・佐藤工業が今年12月14日付で準大手ゼネコン・戸田建設の傘下に入ることになった。戸田建設が10月26日に取締役会を開き、佐藤工業の株式取得と子会社化を決めた。佐藤勝也社長(48)は来年3月末に退任。4月以降は佐藤工業の役員と戸田建設から派遣された役員が経営を担う。社名と従業員約120名の雇用はそのまま継続される。
佐藤工業は本社が福島市泉、支店が郡山市大槻町、伊達市梁川町、相馬市中村、仙台市青葉区の4カ所にある。近年の売り上げは、2014年度が約160億円、2015年度が約125億円、2016年度が約136億円、2017年度が約107億円となっている。業績は悪くなく、現時点で準大手ゼネコンの傘下に入らなければならない理由は見当たらない。それでも社長の佐藤が株式の譲渡を決めたのは、将来に対する危機感があったからだ。

福島県内の建設投資額は、1992年の1兆7116億円がピークだった。その後は減少傾向が続き、2010年度は6142億円になった。ピーク時の35.9%という水準だ。しかし、2011年3月に起きた震災・原発事故で状況が一変した。復興事業や除染事業で建設投資額が激増し、「復興バブル」と呼ばれる現象が起きたからだ。
県内の建設投資額は、2011年が7793億円、2012年度が1兆0622億円、2013年度が1兆4977億円、2014年度が1兆6288億円、2015年度が1兆7128億円となった。ピーク時に匹敵または上回る水準になったのだ。これを受けて、青息吐息だった各建設会社は息を吹き返し、わが世の春を謳歌した。
ただ、震災・原発事故から7年が過ぎたことで、除染事業は一段落した。2016年度の建設投資額は1兆6857億円に減少。震災・原発事故前に比べれば依然として高水準だが、先細りは必至だ。

福島県内では「大手」と呼ばれる佐藤工業だが、全国的に見れば中小規模に過ぎない。このまま自力で経営を続ければ、いずれ立ち行かなくなる恐れがある。経営が苦しくなってから動き回っても、相手に足元を見られるだけ。そこで、業績が好調なうちに準大手ゼネコンの傘下に入り、将来の保障を得ようとしたのだ。

一方の戸田建設は学校と病院の建設を得意にしている。堅実経営で知られ、談合事件や汚職事件で名前が出ることは少ない。ただ、鹿島が幅を効かせる東北地方では、目立つ存在ではなかった。知名度はいまひとつで、大きな工事を受注することも少なかった。
この時期に佐藤工業を傘下に収めようとしたのは、復興バブルの余韻が残る福島県(東北地方)に強固な地盤を築きたいという思惑があったからだろう。
大手・準大手ゼネコンは、かつてないほど業績が好調だ。2017年度の決算がそれを示している。鹿島、大成建設、清水建設、大林組、竹中工務店の大手5社はいずれも過去最高益を記録した。準大手では戸田建設、前田建設工業、安藤ハザマ、五洋建設、西松建設の5社が過去最高益となった。大手・準大手ゼネコンは財政に余裕があり、M&Aをやりやすい状況にある。

今が売り時と考えた佐藤工業と今が事業拡大のチャンスと捉えた戸田建設。両者の思惑が一致した結果が、今回の話である。社長の佐藤は「自分の代で世襲経営は終わりにしようと思っていた」と語っており、社長を退任した来年4月以降は佐藤工業の経営に一切タッチしない可能性が高い。
佐藤工業の発行済み株式総数は90万株。ワールドサマールが45万株、ケーエスシーが37万4000株、みやびが7万6000株を所有しており、3社とも佐藤が社長を務めている。佐藤は全ての株式を売却する方針で、すでに各社の取締役会で株式の譲渡を議決している。90万株のうち、佐藤工業が3分の2にあたる60万5362株、戸田建設が3の1にあたる29万4638株を取得する。価格は明らかにされていない。

佐藤工業は1948年、佐藤の祖父・達也が創業した。その会社を三男の勝三が引き継いだ。現社長の佐藤勝也は、勝三の長男である。
達也は旧制福島中学を2年で中退し、家業の農業に従事した。養豚業にも乗り出し、信夫郡養豚組合を設立して組合長に就任。その後、豚肉を加工して販売した方が儲かると考え、伊達郡伏黒村にハム工場をつくった。戦争で召集を受け、白河輸送隊に入隊。戦後は農機具工場や製材業を手掛け、さらに佐藤工業を設立した。
佐藤家は政治家の家系で、父・利助は旧清水村長や県議を務めた。その長男の善一郎は、旧清水村長、県議、衆院議員、知事を務めた。弟の達也は、善一郎の選挙で参謀を務め、黒衣として活躍した。
しかし、1967年の福島市長選に立候補し、自らも政治の表舞台に登場した。このときは現職の佐藤実に敗れたが、4年後の1971年の市長選で初当選した。2期務めて、1979年に退任。その後は北雄会(佐藤工業グループ)会長を対外的な肩書きにした。

達也と妻・はるえの間には三男四女がいる。長男は寿一、二男は禎二、三男は勝三。達也は福島市長選に立候補した1967年、佐藤工業の社長を辞任した。寿一は安積興産(郡山市)、禎二は福浜工業(いわき市)=現・福浜大一建設=を経営していたため、勝三が社長を引き継ぐことになった。
勝三は日本大学理工学部を卒業し、佐藤工業に入社した。28歳の若さで社長に就任。1977年にサウジアラビアに進出し、自ら陣頭指揮をとった。1983年に東北・北海道街と村開発研究所(タード)、1985年にワールドリフォームを設立し、事業規模を拡大した。

社外の役職も増えた。1996年に福島県建設業協同組合理事長、2000年に全国建設業協同組合連合会長、2001年に福島県建設業協会長、2004年に福島商工会議所会頭に就任。社外の活動にウエイトを置くため、この間、勝三は会長になり、加藤眞司を社長に起用した。
しかし、勝三は2006年にあらゆる役職を退いた。福島県発注の下水道工事に絡む談合事件で逮捕されたからだ(裁判で有罪が確定)。佐藤工業は福島県などから指名停止処分を受け、経営が悪化した。

△プロレス大好きの佐藤社長(左端)

勝三と妻・雅代の間には一男二女がいる。長男の佐藤勝也は唯一の息子なので、幼少の頃から「佐藤工業の三代目」と言われながら育った。宇都宮大学農学部を卒業して、ゼネコンに入社。そこで修業し、1997年に佐藤工業に移った。副社長を経て、2013年に社長に就任。43歳の若さで名門企業のトップに立った。
佐藤は、アマチュアのプロレス団体「SED」代表も務めている。「エスサムライ」という名前でリングにも上がっている。毎年春に行われる福島市の街なか広場大会(福島市)については、本ブログが何度も取り上げた。
佐藤は、子どもの頃からプロレスが大好きだった。学生時代はプロレス研究会に所属し、アマチュアのプロレスラーとして活動。卒業後はその趣味を封印していたが、2002年にSEDを設立し、プロレスの練習を再開した。

翌2003年3月にプレ旗揚げ興行をSEDアリーナ(佐藤工業の倉庫)、同年5月に旗揚げ興行を街なか広場で開催し、団体として活動を開始した。プロ規格のリングを所有しており、年4~5回のペースで興行を開催してきた。
今年は団体の活動を開始して15周年にあたる。これを記念して、5月20日に街なか広場で旗揚げ15周年興行を開催した。7月15日に喜多方市、10月14日に伊達市保原でも興行を開催。保原大会は2003年から通算で99回目の興行となった。100回目の興行は、12月16日にSEDアリーナで行う予定。

【文と写真】角田保弘