プロ野球・巨人2軍投手コーチの阿波野秀幸は現役時代、西崎幸広(元日本ハム)と共に「トレンディエース」と呼ばれた。すらりとした体形に甘いマスク。野球の実力も確かだったので、女性ファンに追いかけられる存在だった。スピードよりキレで勝負する左腕投手。プロ14年間で通算75勝68敗5セーブという記録を残した。
神奈川県出身。横浜市立桜丘高から亜細亜大に進学し、メキメキと頭角を現した。1986年のドラフトでは「注目の投手」と呼ばれた。本人の希望は地元の在京球団で、本音はセ・リーグだった(球界で「在京」と言った場合は東京周辺の県も含む)。ドラフトでは巨人、大洋、近鉄の3球団が指名し、抽選の末、近鉄が交渉権を獲得した。
その瞬間、阿波野は「えっ…」という顔をした。周りにいた学生たちも落胆し、会場は重苦しいムードに包まれた。よりによって、在京セ・リーグから一番遠い球団、すなわち在阪パ・リーグの近鉄が交渉権を獲得したからだ。生真面目な阿波野は入団を拒否しなかったものの、「俺の人生は裏街道だ」と嘆いた。

「裏街道」という言葉は当時、プロ野球ファンの間で話題になった。阿波野はその意味を説明しなかったが、プロ野球ファンなら容易に想像がつく。
「高校時代は甲子園に出場できなかった。大学は非東京6大学(東都)リーグで、プロ野球はパ・リーグ」
「裏街道」を説明すると、こうなる。
とはいえ、神奈川県の高校野球は全国有数の激戦区だ。水島新司の野球漫画『ドカベン』には「神奈川を制する者(高校)が全国を制する」というセリフがよく使われた。これはややオーバーな表現だとしても、強豪私立がしのぎを削る神奈川で、桜丘高が県大会を勝ち抜いて甲子園に出場する可能性はゼロに近い。阿波野は、桜丘高に進学した時点で甲子園出場を諦めたと見るべきだろう。

ポイントは大学だ。桜丘高は進学校である。阿波野の野球の実力を加味すれば、6大学(東大はともかく)のどこかに推薦で合格できたはずである。なぜ、そうしなかったのか。
私がその理由を知ったのは、1995年のことだった。パンチ佐藤のぶっちゃけ話を聞いたからだ。
1994年限りで現役を引退したパンチは、そのときタレントとして飯舘村(現在は原発事故で全村避難)のコミュニティ施設「ビレッジハウス」にやって来た。東北電力主催の講演会だ。オリックスでプレーしたパンチは、主にイチローや仰木彬監督との思い出を語った。アマチュア時代にも触れ、「大学では阿波野と一緒だった」と言った。

パンチは、阿波野と同じ神奈川県出身で、高校も同じ横浜市内の武相高(私立)だ。亜大の野球部では阿波野と同期、1つ下には与田剛(元中日)がいた。
当時はインターネットという媒体が普及していなかったので、個人が全国に向かって情報を発信することはできなかった。しかも、講演会の場所が飯舘村という牧歌的な山村だったので、パンチも気が緩んだのだろう。阿波野が非東京6大学リーグの亜大に進学した理由も口にした。本ブログで明かすことはしないが、それを聞いて、私は「そういう事情があったのか…」と阿波野に同情した。

プロ1年目の1987年、阿波野は勝ち星を積み上げ、ライバルの西崎と激烈な新人王争いを繰り広げた。阿波野は32試合登板で15勝12敗、防御率は2.88。西崎は30試合登板で15勝7敗、防御率2.89。成績はほぼ互角だったが、ふたを開けてみると、阿波野が大差で新人王を獲得した。その背景に「人柄」の違いがあった。投票権を持つのは、マスコミ各社の野球担当記者。ぶっきらぼうな西崎よりソフトな阿波野の方が、記者のウケが良かったのだ。
翌1988年の成績は14勝12敗1セーブだった。1年目と遜色のない結果を出したわけだが、悔いの残るシーズンでもあった。最終戦で粘りの投球ができず、致命的な失点をしたからだ。

プロ野球ファンの間では「10・19」と呼ばれている。10月19日に川崎球場で行われたロッテ×近鉄のダブルヘッダー。近鉄がこの2試合に連勝すればリーグ優勝、1つでも敗けるか引き分ければ西武に優勝を奪われるという状況だった。
阿波野はこの2試合にリリーフとして登板した。第1試合は好投し、セーブを挙げた。しかし、第2試合はマウンドでガックリとうなだれた。8回裏、高沢秀昭にソロホームランを打たれ、同点にされたからだ。試合は結局、そのまま4-4(延長10回)で引き分けとなった。近鉄は優勝を逃し、阿波野は悲劇の主人公になった。
この2試合は朝日放送(大阪)がテレビ中継した。中継の予定がないテレビ朝日は、通常番組を放送していた。しかし、視聴者の要望が強かったため、第2試合の途中(21時)から朝日放送の中継に飛び乗りした。これに伴い、第2試合は全国中継となり、阿波野がうなだれるシーンも画面に映し出された。視聴率は、関西地区が46.7%、関東地区が30.9%に達した。

翌1989年は、阿波野にとって野球人生のピークとも言えるシーズンになった。19勝8敗1セーブで、最多勝と最多奪三振(183個)のタイトルを獲得。近鉄はリーグ優勝し、日本シリーズで巨人と対戦した。結果は3勝4敗で惜敗したものの、阿波野は1勝1敗で優秀選手に選ばれた。
1990年は10勝11敗1セーブと、4年連続で2桁勝利をマークした。ただ、最多勝を獲得した前年に比べると物足りない成績で、しかもプロ入り後初めて黒星が白星を上回った。
不振の原因は、牽制球に対するルールが変更されたことにある。いや、ルール自体は変更されていない。審判の方針が変更されたことで、牽制巧者の阿波野が大きな影響を受ける形になったのだ。

シーズンの開幕前、西武守備走塁コーチの伊原春樹はキャンプ地を訪れた審判団に「阿波野の牽制はボークじゃないのか」と問題提起した。野球規則8・05(C)は「投手板に触れている投手が塁に送球する前に、足を直接その塁の方向に踏み出さなかった場合はボークとする」とある。阿波野の牽制はそのあたりが絶妙で、従来はセーフとされていた。自軍の選手がそれに苦しめられていた伊原は、審判団を通して、阿波野を牽制したのだ。これを受けて、審判団は「これまでより牽制球を厳しくジャッジする」という方針を打ち出した。
シーズン開幕直後の4月22日、西武球場で西武×近鉄が行われた。先発は、西武が渡辺久信、近鉄が阿波野。7回裏、2死一塁の場面で、阿波野の牽制が一塁塁審の五十嵐洋一にボークと宣告された。
「どこがボークなんですか?」
人柄がよいと評判の阿波野も、このときばかりは声を荒げた。ベンチからは監督の仰木が飛び出し、五十嵐に猛抗議した。しかし、判定は覆らなかった。これを機に阿波野は牽制恐怖症に陥り、本来の投球ができなくなった。

1991年以降の10年間は、1度も2桁勝利を挙げることができなかった。1992年に6勝したのが最高である。草魂・鈴木啓示監督との確執もあり、1995年には巨人にトレードされた。巨人時代の3年間は1勝もできず、1998年に横浜へトレードされた。ここで近鉄の投手コーチだった権藤博監督と再会。権藤のアドバイスで復調し、横浜のリーグ優勝と日本一に貢献した。ただ、ピーク時の活躍にはほど遠く、2000年限りで引退した。
阿波野は前述したように、近鉄、巨人、横浜(旧大洋)と渡り歩いた。ドラフトで自分を指名した3球団全てでプレーしたことになる。野球人生の後半は「メーンストリート」を歩んだが、そのときはもう往年の実力はなかった。「最初から巨人または大洋に入団していたら…」という想像もしたくなるが、その場合は10・19に登場することはなかった。牽制球の問題も含めて、タラレバを言いたくなる投手…それが阿波野秀幸だ。