【下斗米伸夫教授】ロシア正教会における古儀式派(分離派=ラスコーリニキ)〜『罪と罰』主人公 | ☆Dancing the Dream ☆

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「ソ連崩壊30年」(1) 下斗米伸夫・神奈川大学特別招聘教授、法政大学名誉教授 2021.12.22


下斗米伸夫教授 PowerPoint 
本日の課題①

ドストエフスキー『罪と罰』のラスコリニコフ〜古儀式派問題
エリツィンはラスコリニコフ(分離派 古儀式派)の末裔である。
ドストエフスキーの『罪と罰(1866)』の主人公のラスコリニコフ。
1866年にロシア正教会の分裂の記念出版という隠れた意味があった。
ラスコリニコフという名は、反権威的な教会の分裂(ラスコール)の意味がある。
ラスコリニコフは正教会の中でサンクトペテルブルグに首都を移して帝都ピョートル大帝に反対して、モスクワが第3のローマであるということを信じた。これは300年前の古いモスクワに戻ろうという正教内の古い潮流(”陰の国民国家”)。
ドストエフスキーが暗示したのは、クリミア戦争で敗北して帝国が揺らいだ時に帝国に反対してウクライナとの問題とも絡んだ潮流が、実はモスクワに存在していたということだった。この人々は簡単に言えば正教のなかのプロテスタントでもいうべき真面目な頑固な人たちの潮流だった。
実は、ウラル生まれのエリツィンは「古儀式派」のグループでモスクワを聖都と仰ぐ古い潮流。ロシアナショナリズムの隠れた源流と読み直し、エリツィンとはそのような人だったのではないかという角度からソ連崩壊を読み解く。
ドストエフスキー的にいうならば、「兄弟喧嘩から兄弟殺しに発展しかねない」ロシア・ウクライナ関係を歴史の流れから見る。
実は300年前の帝政が形成される以前、約50年の宗教論争があった。二本指(神と人)で十字を切るのが「古儀式派」のラスコリニコフで、それに対し今の正統派は三本指(父と子と精霊)で十字を切るなどの違いがある。その違いが統一されて「ロシア正教会」となったときに、「古儀式派」は異端として追放され抑圧される。20世紀初めで約100万…しかし実数はその10倍はあっただろうともいう。レーニンの秘書、20世紀最大の古儀式派の研究者でソビエト政権の最初の官房長官だったボンチ=ブルエヴィッチは、人口1億超のロシア帝国の中に3000万人の古儀式派がいたとする。このうち400万人の労働者、そのうちの半分は女性と子供であったという1917年のロシア。
そのイメージを思い浮かべれば、「古儀式派問題」というのは「ロシア革命」、20世紀だけではなくロシアの歴史を貫く一本の糸だったのではないか。
そういう角度からロシアとウクライナの関係を見てみたい。今の問題に繋がっていく。


ペレストロイカからソ連崩壊へ②

ペレストロイカを始めて最初の3年間は政治改革を行った。政治改革とは「ソビエト共産党」(単に政党ではなく超国家組織)のくびきから自由になること。くびきの蝶番の心棒にあたるようなものが党官僚機構だったが、これを抜いた。そうするとソビエト国家は非常にひ弱な国家体制しかなくその間に非常に大きなコンクリフトが起きた。
「新連邦条約」をドイツのように大統領の力を弱めてその代わりに台頭し始めた共和国、ソ連の中の最大のロシア、その石油やガスや富を使って改革をやろうというエリツィンの台頭、バルト三国の主権化の動きが出てきた。
1991年4月ゴルバチョフが来日していたときには、実はクーデター計画のプランBが3月からすでに作られていた。ゴルバチョフもこれにサインしている。
これは、”エリツィンや15の共和国がもし署名しなければ「1922年連邦条約」を破棄して何も無いことになる、これはまずい”ということで、プランBとして3月からヤナーエフ副大統領が中心に企てられた。
ヤナーエフを中心にKGB、内務相、軍の幹部たちを中心にクーデターを準備した。
1991年8月クーデター(「ロシア8月革命」「8・19クーデター」)が起きた。これは裏目に出る。
新連邦条約の締結でソビエト連邦を構成する15の共和国の権限を拡大しようとした改革派のゴルバチョフ大統領に対し、条約に反対するヤナーエフ副大統領ら保守派グループがクーデターを起こすが、エリツィン(ロシア共和国大統領)を中心とした市民の抵抗により失敗に終わり、逆にソビエト連邦の崩壊を招いた。
 これを引き金にしてクーデターが起きたウクライナの中は、西半分には同じ正教でありながら「古儀式派」と正反対のグループ「東方典礼カトリック教会」(儀式は正教会だが人事権はローマ法王が握る)という半地下組織的な運動が表に出てきた。ウクライナの中も分裂をする。クーデターの失敗に気づいたウクライナ議会は独立を宣言する。
ゴルバチョフとエリチンのパーソナリティーや政治的信条の違い
ゴルバチョフは、農業部門(コルホーズ)の出身でモスクワ大学を卒業しコムソモール(マルクスレーニン主義党の青年部)の優等生。エリチンは、共産党には30歳位まではいっておらず一番最初に止めると決断する。スヴェルドロフスク生まれのエリチンは実は「古儀式派」であったということが知られるようになった。


国家非常事態委員会の起源③

簡単にいうと、改革派と保守派の争いは、85年4月の中央委員会総会の前から、ルキアノフ派(ゴルバチョフらクーデター派の思想:共産党のコントロールの元に改革をすべきという考え)に対し、ゴルバチョフの側近としてペレストロイカを推進したヤコブレフはエリチンの軍門に降り、ミハイル・ポルトラーニンというジャーナリストがエリチンの最初の側近となった。このポルトラーニンこそが、エリチンのボディーガードであるコルジャコフという人物と並んでソ連の国家崩壊、エリチン政権、その後継者プーチンの体制の基礎を作った人間だと思っている。彼もまた「古儀式派」だった。
ヴィクトル・チェルノムイルジンというエリチン政権の首相、「ガスプロム(世界最大の天然ガス企業)」の初代社長(ガス工業省の企業からガスプロム・コンツェルンに変え国営株式会社に変えた)。オレンブルグ出身のコサック、チェルノムイルジンがあれほど浮気なエリチン政権の首相であり続けたその秘密は、ロシア主義的な思想を持った「古儀式派」だったことである。
 91年7月から8月に何があったか?
簡単にいうと、共産党の枠内ではもう改革はできないということ、ロシアの主権のもとでやる。
6月12日にはモスクワに二人の大統領野市に現れる。どっちが、石油、ガス、金属、貴金属などの資源のかかくをせっていするのか?という中央改革が不可避になった場合、そのイニシアチブをめぐる争いにもなった。そして、クーデターが起きた。グラチョフシャポシニコフなどの第一線部隊の軍のトップの人たちがエリチン側に参加していた。
 91年8月22日から24日、ソ連崩壊に至る重要なことが起きている。それはウクライナの軍産複合体が事実上、クーデター派の中核部隊だった。
東部の軍産複合体のトップで、ウクライナ共産党の第一書記官のスタニスラフ・フレンコはクーデターはだったが、彼はクーデターが失敗した途端にモスクワからの訴追を恐れて、一晩にして独立派に転向した。その結果、ウクライナのエリートは一斉に「モスクワとの分離(=ラスコル)」を主張した。
 91年8月24日、ソ連の秘密警察KGBの創設者でポーランド人のフェリックス・ジェルジンスキーの像を引き倒して何をしたか?
古儀式派の僧侶が数年間立てこもって正教会に抵抗した「ソロヴェツキー修道院」…これはジェルジンスキーが、政治犯、農民、知識人を抑圧する収容所に使っていた。その修道院から石を持ってきてメモリアルをつくった。
ジェルジンスキーは、ジェズイット (Jesuit) 教団(=イエズス会/カトリック系)である。
”ポーランド的”なるものと”古儀式派的”なるものとの対立の燭光とでもいうべきものが出ている。
それがエリチン政権、ソ連崩壊のなかで大きな意味を持ったのではないだろうか。


古儀式派(ラスコリニキ)とは

実は、ロシア革命も「聖都モスクワ」ならぬ、第3インターナショナルの拠点、首都をモスクワに移したのは、これもまた「古儀式的」な発想でもある。
(26:45〜略)









34:11〜
ウクライナとの関係では、実はクリミア黒海艦隊を含めた戦略部隊は、シャポシニコフ(前述)という人物にCISの戦略軍(CIS(独立国家共同体)統合軍の総司令官)をつくって渡すということだった。
エリチンは、クリミア半島、特に黒海艦隊をどうするかということについてほとんど関心を示さなかった。
ここできちんと決めておかなかったことが、今日の事態を招いている。



オリガルフとは、本来は「少数の腐敗する政治体制」のことをういう。
7人位のやや出自はいかがわしいと言われても仕方ない人たちが、突然巨万の富を得て、経済も民営化だということでIMFも支持して民営化が進む。(7人のオリガルヒボリス・ベレゾフスキー、ウラジミル・グシンスキー、ミハイル・ホドルコフスキー、ウラジミル・ポタニン、ミハイル・フリードマン、ウラジミル・ビノグラドフ、アレクサンダー・スモレンスキーの7人。ベレゾフスキー、グシンスキー、ホドルコフスキー、フリードマン、スモレンスキー5人はユダヤ人。)
新興財閥オリガルヒのベレゾフスキーは、わずか約300万ドルで国営放送(国営放送のロシア公共テレビ(ORT))を手に入れ、しかも、その給料を払うためにシベリアの石油利権をほとんどタダ同然でもらった。
元々はコンピューター技師のような人物が、あっという間に、ロシアの「民営化の闇」の中から台頭する。
一般の普通の人々は、民営化によるインフレと格差に喘いだ。
中産階級が没落し、国家財政が成立しないので、代わりに「ガスプロム」が政府の第2の財布になり、チェルノムイルジンがガス代金を色々な形でロシア政府の肩代わりする。チェルノムイルジンは共産党のノーメンクラトゥーラの民営化で一挙に富を得た人。
そういうプロセスの中で、自治国や共和国、ヤクート(ヤクート自治ソビエト社会主義共和国 サハ共和国)、タタール(タタールスタン共和国)など、ダイヤモンドが採れる日本の遠い親戚のような人々がシベリアに日本の6倍の面積の自治共和国がある。こういうところの人たちがそれぞれ巨大な富を「ノーメンクラトゥーラ」として民営化する。あるいは、金融部門で全く無名の人たちが突然指名をうけたかのように銀行業務を握る。
 そのようなオリガルヒが、あっという間に、エリチン政治、エリチンの大統領選挙に絡む。


1996年大統領選挙

1996年ダボス会議でJソロスがベレゾフスキー(7銀行家)に「あなた達、そろそろ富を外に流してはどうか?」と言ったら、逆に、ベルゾフスキーは「裏選対」をつくり、物凄い富を集めてエリツィンの再選に賭けた。
これが96年の大統領選挙をめぐる本当の物語だった。





エリチン政権の最後を支えたのが外務大臣・プリマコフ(元はゴルバチョフ系)。
プリマコフは、ウクライナの黒海艦隊とセヴァストポリの問題を解決する。難しい話だが簡単にいうと「ウクライナの主権を認めて”賃貸”にする」」「ウクライナ政府は金がないので、ロシア政府が(ガス代金)1億ドル位払ってやる」そういう形で2017年までの賃貸契約とウクライナ・ロシア共同艦隊構想で乗り切ろうとする。
2010年に「2017年の延長問題」が出てきて、ウクライナの東部軍産複合体系のヤヌコーヴィッチが首相だったときに、「2042年まで共同艦隊と賃貸で処理する」という約束ができている。

従って、2007年位からプーチンの元で、「NATO東方拡大」がいよいよ旧ソ連の国々に迫ってきた時、そしてアメリカがアグレッシブな形でウクライナの中に親NATO勢力を作ろうとした時、一応、「(ウクライナとロシアは)共同艦隊」という構想でやっている。
だから2014年の「ウクライナ危機」について、”ロシア軍が攻めて行った”などと書かれるのはおかしい。そもそも、「黒海艦隊」は「共同運営」をしていたのである。
この時のロシアの介入には、いろいろな説明が必要である。



石油の利権の腐敗が生じていた。
結局、ロシアを握るのは「オリガルフのベルゾフスキーとホドルコフスキーの二人」
彼らが石油、ガスを握っている。特にシベリアからボルガの石油利権をちょうどロックフェラーやモルガンのように二人で牛耳っている。
実は、「”プリマコフ的な国家主義”と”民間主導のベルゾフスキー”の対立」が激しくなったのが、エリチンの日本訪問の意味だった。
特にベルゾフスキーは、モスクワでロシア国民の間で非常に不人気である。
チェチェン(ロシア連邦北カフカース連邦管区に属する共和国)チェチェン問題はベルゾフスキーの護衛達が非常に関与している。
 97年にベルゾフスキーはチェチェン問題で失脚すると、今度はウクライナとベラルーシに手を入れ、特に東ウクライナのレオニード・クチマ大統領(ロシア人、正教世界、東部軍産複合体の指示で出てきた)に入り込む。98年にクチマはベルゾフスキーをCIS(独立国家共同体)の執行書記に推薦する。これはエリチンも知らないことだった。
 いまのソ連崩壊を嘆く「プーチンはけしからん」という意見があるが、あれは元々、ウクライナの政治家の発言であり、それをベルゾフスキーが最初に言った。

 (wiki)エリチン再選の選挙を機にベレゾフスキーを始めとする新興財閥(オリガルヒ)が政権内で影響力を増し、「ファミリー」と呼ばれる側近グループを構成していく。ベレゾフスキー自身も1996年10月いわば論功行賞で、ロシア安全保障会議副書記に就任し、チェチェン問題を担当する。1997年同職を解任されるが、1998年4月CIS(独立国家共同体)執行書記に就任する。また、自分の影響力のある人物を政権に送り込み、政権運営に関与しエリツィン政権の「黒幕」とか「政商」の名をほしいままにした。
1998年9月にロシア金融危機の収拾のためにエフゲニー・プリマコフが首相に就任すると、政権の主導権を握ったプリマコフによって「ファミリー」に対し、圧力がかけられる。ベレゾフスキーも汚職を追及され、1999年3月にCIS執行書記を解任された。しかし、プリマコフの台頭を恐れたエリツィンがプリマコフを首相から解任したため、ベレゾフスキーは間もなく復権した。1999年下院国家会議選挙で、政権与党「統一」の結成と選挙戦にはベレゾフスキーから大量の資金が流れたと言われる。また、大統領選挙同様、ORT(支配下の国営放送のロシア公共テレビ)を使い「統一」の宣伝を強力に推進し「統一」の勝利に貢献した。ベレゾフスキー自身もカラチャイ・チェルケス共和国の小選挙区から立候補し当選した。下院議員としては、第二次チェチェン戦争に反対の立場を表明した。〜




ベルゾフスキーは、「NATO東方拡大」が進められるときに、むしろクリントン政権と一緒にやった。
彼らはオックスフォードで同窓である。
ロシア専門家、ストローブ・タルボットマヤコフスキーの専門家で軍事の専門家ではない)が、クリントン政権で1994年から2001年まで国務副長官を務め、対ロシア政策やNATOの東方拡大に関わった。
そのとき、タルボットがぶつかったのは、ベレゾフスキーだった。
 ベレゾフスキーは、ウクライナ、中央アジア、ベラルーシの再統合を90年代のアジェンダとし、全ソ連のテレビ局のロシア語放送の利権を持っているのでメディアコントロールも行い「エリチンの次の権力は自分がつくる」という意思を持っていた。
 エリチンは96年から心臓病で倒れており後継者探しが始まっていた。98年ごろ一番人気があったのが、プリマコフルシコフ(モスクワ市長)。ルシコフのグループが民間TVと組んで人気があった。
 これを潰すために出てきたのが、「後継者・プーチン」だった。
プーチンの面白いのは、彼の「出自」と「古儀式派」の関係である。
プーチンは選挙パンフレットの初めに「自分のお祖父さんはレーニンのコックだった」と書いた。
19c末から20c初めロシアの途轍もない巨大な民間資本は「古儀式派」資本だった。
マルクス主義がロシアに入ってきたのは、合法マルクス主義者だった。
「古儀式派」の総帥は、繊維王・サッバ・モロゾフ氏という人物でモスクワ芸術座のパトロンでもあった。
同座の作家だったマクシム・ゴーリキ(『どん底』1902年)がいる。
レーニンはロシア革命後、テロに遭い隠れ住んだのが、「古儀式派」村のモロゾフの館で、モロゾフ夫人(モロゾフは死去)とその妹、晩年のレーニンのコックをやっていたのがプーチンの祖父だった。
つまり、プーチンの先祖一族は保守派であり革命派ではないが、毒を盛らない信用のおける人だという意味である。

東京新聞2017年9月23日  歴史を動かした異端派、ロシア革命100年 青木睦・論説委員が聞く
宗教は21世紀のカギ 下斗米伸夫・法政大教授

https://www.tokyo-np.co.jp/article/3166


(中略)
(59:44〜)
2014年のマイダン革命の時に、百数十人が亡くなった。
これをめぐる裁判と、ロシア研究者の論文が出ている。
カナダの研究者の報告では、百数十人の亡くなった人のうち、ヤヌコービッチ(親露派大統領)の機動隊によって亡くなった人は、1人〜数人だった。
実は、マイダン革命派の方からスナイパー部隊が射撃したということが、21年9月の研究大会で報告があった。
しかし、こういう報告は、西側メディアではなかなか出てこない。
正確にいうと、BBC やシュピーゲル(Der Spiegel:ドイツの週刊誌。「鏡」の意。)をよく読んでいると、半年遅れで正しいことが出てくる。

ミヘイル・サアカシュヴィリ(ウクライナ大統領)のNATO東方拡大の間の2011年1月、バイデンは副大統領のときに、ロシアを訪問し、バイデンの弟分のようなメドベージェフ(08年〜12年ロシア大統領/2012年5月からプーチン大統領就任)の続投を軽薄にも口にした。
これがプーチンを参選に戻らせた。



NATO東方拡大は、モスクワ・ワシントン、ジョージア・ウクライナだけでなく、アメリカ内政の問題とも絡むのではないか?
「ロシアは敵か?」という質問を民主党と共産党にしたところ、共和党は、「それほどロシアを敵とは考えない」(親露というわけではないが、キッシンジャー的なバランス外交。)
ところが、民主党は、「ロシアを敵と考える人が多い」(ケネディ以来、カトリックが多い。カナダ政府がソ連崩壊の時にアクティブに動いた。カナダには1〜7%ウクライナ移民がいる。フリーランド副首相(元外相)は90年代民営化のFTのモスクワ特派員だった。民主党クリントン人脈とも親しい)



14年のウクライナ紛争というのは、誰も得をしなかった。
ウクライナというのは、「stateなきnation」と言われ、ロシア革命の時には二つに分かれ、1991年に国家制をもった。
その間、レーニンが農業しかないウクライナに炭田、重工業の東ウクライナ(ピンク)の部分を与えた。
第二次世界大戦が始まる時に、スターリンがリヴィウなど西部ウクライナ(深緑)の部分を拡張政策で与えた。これが東方典礼カトリック教会のゲリラ活動を生み出した。この人々(バンデラ軍)はナチと組んだ。バンデラ軍はその後ナチとも戦う。1953年位までゲリラ戦を戦い、その見返りに、1954年にクリミア半島をロシアからウクライナに与えたのがフルシチョフ。



赤いところが、ウクライナ語。
黄色と茶色は、ロシア語(正教世界)。
構造的に分裂を招きかねない、ハイブリッドなウクライナ内政に、NATOが絡むと紛争が起きる。
この和解のプロセスは、米国とロシアが話ができないので、キッシンジャー研究所とIMEMOというロシアの研究機関が、フィンランド政府の仲介で話合い、これをベースに独仏が絡んで、これにベラルーシとプーチンが入って、「ミンスク合意1」(2014)、「ミンスク合意2」(2015)をつくった。その間、ロシアも正規に軍事介入したことは事実であるが、ここでは”悲劇(偽旗作戦による大量虐殺)”が起きていた。チョコレート王のオリガルフのポロシェンコが西側寄りの政策をとり戦争をなかなか終わらせなかった。
18−19年、俳優であったゼレンスキーが、ロシアとの和平を掲げて大統領に当選した。
ところが、「ノルマンディー・フォーマット」、すなわちフランス、ドイツ、ロシア、ウクライナ4カ国の外務大臣のミンスク合意はアメリカ本国が関与しないのでなかなか上手くいかず、紛争が激化してしまう。
21年に入って、和平派であったゼレンスキーが2月からクリミア奪還を含むWar Partyとでも言うべき立場になった。理由は、人気が下がったこと。また、アゼルバイジャン、アルメニア紛争でトルコがドローンを提供し、ゼレンスキーらがロシアに攻勢をかけ、これに対し4月にプーチンは動員をかけて、6月の米露首脳会談にもちこんだ。



ドネスク、ルハンスクというロシア正教会に近いこの一帯が、2014年4月〜5月反乱を起こし、連邦制を主張した。



INF条約(中距離核戦力全廃条約)は、2018年10月20日、トランプが破棄すると表明し、2019年2月1日、アメリカはロシアに対し条約破棄を通告し翌2日からの義務履行停止も同時に表明した。ロシアもこれを受けて条約の定める義務履行を2日に停止した。条約は予定通り半年後の2019年8月2日に失効し、新スタートが失効しかかりバイデンは慌てて5年延長した。

次の軍事のメカニズムについては、プーチン政権のドミトリー・コザク副首相と、14年のウクライナ紛争の仕掛け人だったヌーランド国務次官の間で綱渡りの交渉をしているというのが、今見える米露関係。













露独「ノルドストリーム2」
SWIFT(国際銀行間通信協会)からイランのようにロシアを排除する可能性もなくはない。
ロシアの方も外貨準備高を金と人民元にかえて対応しようとしている。
2022年がどうなるのか?

下斗米教授の提案としては、「ウクライナをNATOにいれるな!」
プーチン側のレッドラインが今強硬に押されてきているが、穏健な平和的な枠組みの中で推移することを祈っている。

ロシアは元々、クリミア半島で88年にキエフのウラジミール太閤が休戦したことに基づくものである。
21年7月のプーチン論文では、ロシアとウクライナは「道祖」である。おなじ「nation」であると書いた。
おそらく西ウクライナの人には受け入れられない考え方である。
ソルジェニーツィンのスラブ系3民族の教会というのがバックグラウンドにある。
いまウクライナ最大のモスクワ総主教派の教会は、2018年ポロシェンコのもとで選挙目的もあって、コンスタンチノープル総主教派に転換した。従って、ロシア正教会とウクライナ正教会は、「ラスコール(分裂)」が起きている。
ロシア正教会の方でも、プーチンが古儀式派を国家承認した。プーチン自身は「古儀式派」ではないと思われるが、彼の近い周辺に「古儀式派」はいる。



岩上安身による法政大学法学部教授・下斗米伸夫氏インタビュー 2015/05/07

  IWJインタビュー全編(1時間45分)
 「国家として、メルトダウンしかかっている」混乱が続くウクライナ、プーチン大統領の次なる戦略とは~岩上安身によるインタビュー 第536回 ゲスト 法政大学教授・下斗米伸夫氏 2015.5.7 https://iwj.co.jp/wj/member/archives/244787#memberB


下斗米伸夫 
(しもとまい のぶお、1948年11月3日 - )
法政大学法学部名誉教授。専攻は、比較政治、ロシア・CIS政治、ソ連政治史。
「旧ソ連・ロシア研究の第一人者」、「ロシア政治研究の第一人者」と称される。
北海道札幌市生まれ。1971年に東京大学法学部を卒業。東京大学大学院法学政治学研究科修士課程に進学し、渓内謙に師事した。1978年に、東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。法学博士。論文は「ソビエト労働組合(1925年-1928年)伝達紐帯の政治構造」。 同年、成蹊大学法学部専任講師に就任し、1985年、同大学法学部教授を経て、1988年から2019年まで法政大学法学部教授。2019年より同名誉教授。神奈川大学法学部特別招聘教授。この間、1975年~1976年にモスクワで在外研究(文部省派遣留学)、1983年~1985年にバーミンガム大学ロシア東欧研究センターで在外研究、1992年~1994年にハーバード大学で在外研究。
1998年~2001年まで朝日新聞客員論説委員をつとめる。2002年~2004年まで日本国際政治学会理事長。2003年、10月20日のAPEC首脳会合の際の日露首脳会談において設立が合意された日露賢人会議のメンバーである。

 


ウクライナ緊迫、ロシア研究の第一人者が「軍事侵攻は起こり得る」と考える理由
下斗米伸夫・神奈川大学特別招聘教授/法政大名誉教授インタビュー(前編)
ダイヤモンド編集部 西井泰之 2022.2.8 4:55
https://diamond.jp/articles/-/295537
 ウクライナ情勢の緊迫が続いている。欧州の一員を目指すウクライナ政府を支援する米英仏独を中心にしたNATO(北大西洋条約機構) と、反発するロシアの対決姿勢も強まるばかりだ。ロシアによる「クリミア併合」から8年、なぜいまウクライナ問題が再燃したのか。ロシアの軍事侵攻はあるか。鍵を握るプーチン大統領は何を目指しているのか――。ロシア政治研究の第一者である下斗米伸夫・神奈川大学特別招聘教授/法政大学名誉教授は、冷戦終焉から30年を経て、ウクライナを舞台に米国とロシアによる核管理とヨーロッパの安全保障を含めた国際秩序の作り直しが始まっているとみる。その過程では軍事衝突の可能性も否定できないという。ウクライナ問題の本質と行方を、下斗米教授に2回にわたって聞いた。(聞き手/ダイヤモンド編集部特任編集委員 西井泰之)
冷戦終焉から30年 米ロの新秩序作り
ロシア軍派遣で米国の本気度試す
――ウクライナの情勢をどう見ていますか。2014年2月にロシアによる「クリミア併合」が起きましたが、その後、ミンスク合意(15年)でウクライナとロシアは折り合ったはずです。いま何が起きているのでしょうか。
  この問題は、表向きはEUに向かおうとするウクライナと、それを止めたいロシアの対立だが、大きな構図で見れば、米中対立のなか、米国とロシアによる、グローバルな核管理や欧州安全保障を含めた国際秩序の作り直しが始まったと思っている。


ウクライナは中国、トルコも絡む「多極ゲーム」?ロシア研究の第一人者が考える“現実解”
下斗米伸夫・神奈川大学特別招聘教授/法政大学名誉教授インタビュー(後編)

2022.2.9 5:00 ダイヤモンド編集部 西井泰之
https://diamond.jp/articles/-/295680
ウクライナ情勢をめぐる米国・NATOとロシアの対立を、下斗米伸夫・神奈川大学特別招聘教授/法政大学名誉教授は、ウクライナを舞台に米国とロシアによる核管理とヨーロッパの安全保障を含めた国際秩序の作り直しとみる。だが双方が軍事力を誇示して相手に譲歩を迫るチキンゲームのような展開は、中央アジアの民族やイスラム勢力も絡んで偶発的な衝突となり、さらに戦線が一気に拡大する恐れがある。下斗米教授は、ウクライナのNATO加盟は20年間の猶予期間を置き、東部2州の分離派支配地域はフィンランドやスウェーデンと併せて中立地帯にするなどの知恵を働かせる余地があると語る。(聞き手/ダイヤモンド編集部特任編集委員 西井泰之)
突然のカザフスタン政変劇
トルコやイスラム勢力をけん制?
――ロシアのウクライナへの軍事侵攻の可能性を考える上で、今年1月のカザフスタンの政変から何がみえるのですか。
  カザフスタンで、旧ソ連邦崩壊後、独立以来、長年権力を握っていたナザルバエフ前大統領が失脚した。大統領職は2019年に辞めて、トカエフ大統領に譲っていたが、終身大統領のように一族が隠然たる力を持っていた。
 だが騒動の背後に、「外部勢力」があるといわれている。


ソ連崩壊、成果は「自由」 30年を振り返る―下斗米法政大名誉教授
2021年12月23日07時10分
https://www.jiji.com/jc/article?k=2021122201093
 旧ソ連・ロシア研究の第一人者、法政大の下斗米伸夫名誉教授は22日、東京都内の日本記者クラブで会見し、25日で30年を迎えるソ連崩壊について、締め付けがあっても一定の「自由」がロシアに存在するようになった点を成果として挙げた。学術交流も含め「頑張っているジャーナリストや学者」から「一応、理屈の通る話」も聞ける現在のロシアは、ソ連時代とは様変わりした。
 今年のノーベル平和賞はロシアの独立系紙「ノーバヤ・ガゼータ」のムラトフ編集長に贈られた。「それをプーチン大統領が祝福する関係は、中国には絶対あり得ない構図だ」と指摘した。
 一方、残念だった点としては1990年代の「激しい中産階級の没落」を挙げた。軍人も芸術家も「国家財政で生きていた人たちがほとんどだった」のがソ連だ。国家財政が消え「市場経済になってお金が重要になったら、経済の4分の3が物々交換になってしまった」と振り返った。
 80年代にサッチャー英政権、レーガン米政権が採用したマネタリズムのやり方を強引に推し進めた結果、「どう見てもいかがわしい人たち」が経済を牛耳るようになった。オリガルヒ(新興財閥)による経済支配は、ウクライナを含め今も旧ソ連圏の腐敗の根源だ。「90年代については、もう少し別のやり方があった」と述べた。