2024年1月12日付で無職になった。
約1年2か月ぶり、人生では2度目の無職。
富山県氷見市に住んでいる僕は2024年の1月1日に生まれて初めて震度5強を体験した。
家がみしみしと揺れている様子を庭先のカーポートの柱に掴まりながら眺めていた。
普段電車には乗らない人間だけど、あの日あの瞬間の足元は幕張メッセへ行ったときに乗った京葉線で感じた揺れによく似ていた。
この地震のせいで無職になったわけではない。
会社側からは去年の11月には業務転換のため1月をもって解雇と聞かされており、有給消化期間中だった。
元日の夕方、昼寝中、16時5分ごろ1度揺れた。震度4程度。目が覚めた。
スマホで防災アプリを開きリアルタイムの震度表示を眺めていた。
5分ほど経ち、震度表示も消え「治まっただろう」と思いスマホの電源ボタンに指を掛けた瞬間だった。
16時10分、2度目の地震。
画面上の地図には能登半島、そしてその根元にある氷見市に現在位置の表示。半島の先端の方に×印。震度7の表示。
現在地の震度予想は5強。理解が追い付いてなかった。
どういうこと?え?と言ってるうちに揺れが来た。
飛び起き、スマホと財布を持ち部屋の入口の障子戸をあけ、ダッシュで玄関に向かい外に飛び出した。
防災に使えそうなものは家の中。あの状況下で冷静に持ち出せるはずがなかった。
今は外の車庫に収納ボックスを置き、その中に防災グッズを入れてある。
家はみしみし鳴っていたが無事だった、電気も停まらなかった。
ただ水が来なくなった。
通水までに2週間ほど、元の水圧に戻ったのはそれから5日後くらいだった。
地震のあと、市内では県内外の各自治体の消防車や救急車、給水車が走っているのを連日見かけた。
そのたびにありがとうございますと感謝していた。いまも感謝している。
改めて日本という国は狭くて小さく、そして助け合いの国なんだなと思った。
あれから1か月は経った。けれども経っただけ。
被害が小さかったところは元の生活に戻ったが、倒壊した家屋は未だに手付かずで残っている。
道路も応急処置で済んだところもあれば、液状化で沈んだところではいまだに砂利道のまま、電信柱も傾いている。
このあとどれだけの時間をかけて戻っていくのだろう?いや戻るのだろうか?わからない。
自分もどうなるのだろう?わからない。
後ろと下は向きたくない。前を向いていこうと思う。