哲学的知見というものも、様々に学びを積み重ねてゆくと、一定の実力がついてゆくものである。哲学的教養の蓄積は、自己の様々な思索の基となるものでもあろう。

 

 プラトンの「パイドン」にみられるような魂の不死性の証明は、哲学において永遠の課題であろう。そもそも、哲学は本来、宗教性を有しているし、それは明らかに、哲学の始原とも言えるプラトン哲学においては有していると言えよう。

 

 そこにおいては、簡単な証明法がとられてはいるものの、魂の不死性というものは、思索する者にとって、或る種の前提とも言えるようなものでもあろう。

 

 思惟するということは、確かに脳の働きでもあるが、それは、脳を使った「魂自体」の働きであるのである。生物的な脳からだけでは高度な思索は生まれえないであろう。やはり、魂の高尚さから導かれた営みこそが真なる思索であり、真なる哲学であろうと思う。

 

 故に、「考える、故に吾あり」と云われた哲学者(デカルト)がおられるが、このように、考えるということは、魂というものの実在を何よりも証明する人間活動の精髄なのである。

 

 様々にある哲学書は学ぶためだけにあるのではなく、考える素材としてあるはずである。故に、そこから何を思索するかということが大切である。また、思索するという営み自体は、日常における素朴な感動や好奇心から始まってもよいと思う。

 

 確かに、真理とは、誰にとっても真理である普遍的なものであろうが、哲学者が様々に異なった見解や思想を述べているということは、真理には多様性があるということでもあろう。

 

 しかしながら、ある一定の真理が歴史的に評価され、遺ってきているということは、やはり、真理には普遍性と客観性があるということなのだろうと思う。

 

 プラトンのように、たとえ古くても、それ故に、より一層客観的評価が高いとされている書もある。そこで述べられている魂の不死性の論法や真理は、哲学の初めにあることであり、また、哲学の終局においてある所の根源的な事柄でもあるのかもしれない。

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

    天川貴之

(JDR総合研究所・代表)