哲学思想といっても様々なものがあるが、それぞれの人性に即して学ぶ形とは、比較的に、自己の思想に近い思想家の著述を何度も読み返して、自らの思索の基軸としているような方も多いことであろう。


 本当に、人類の哲学的古典というのは典型が自ずから定まっており、ごく少数の精神が支柱となって学ばれているといえばその通りであるかもしれない。

 

 かのヘーゲルであっても、何故にキリスト教というものをあらゆる宗教の典型のように考えたのかということは、彼が置かれていた当時の時代環境による所も大きいであろう。


 そもそも、絶対者や道徳律というものが多元的で多様であってよいのか否かということは、人類にとって大いなる課題である。

 

 ただ、現代社会に生きる我々は、既に多様なる価値観を肯定しているし、様々に異なる文化文明間における相互理解の根底には、多様なる価値観の受容ということが必要不可欠であろう。


 私がモンテーニュやエマソン等の随想家を愛するのは、彼らが、多様なる価値世界を広げながら、多様なる哲学、思想、芸術をルネサンス(再興)して下さる所があるからだと思う。このような文化尺度の広さや厚さを愛するということも、哲学的愛の形の一つであろうと思う。


 この反対に、絶対者はキリスト教の神のみであって、宗教規範はキリスト教の道徳律のみであるという価値観は、哲学思想をその精神の中心とする私のようなタイプを説得するのは難しい。


 近所の牧師の方が、仏教や神道を捨ててキリスト教のみを信ぜよという主旨のことを述べられたが、仏教や神道等のキリスト教以外の宗教、哲学、思想を肯定する心はこれからも変えるつもりは全くない。それは、自己の世界観を限りなく狭くしてしまう考え方ではないだろうか。


 例えば、先祖伝来の宗教である浄土真宗には親しみがこもっていて、御先祖様もその方が納得されると思うし、また、日本の伝統宗教である神道も尊重したい。確かにキリスト教も学びたいが、もっとより広い価値基底を自分なりに創っておきたいのである。


 先程述べたヘーゲルであっても、彼が到達した哲学的な高みには大いに敬意を表しつつも、その一方において、残念ながら、所詮、彼はキリスト教の御用学者にすぎないのではないかという穿った見方をしてしまう所もある。

 

 このように、宗教多元主義というものは、様々な分野で言われて久しいことであると思っていたが、実際にはそれと異なる現象も未だ数多くあるのであろう。

 

(つづく)

 

 

 

 

 

 

    天川貴之

(JDR総合研究所・代表)