私はひとまず、時間というものに勝る癒しはないと思ってる。

 

18歳の時、3歳から一緒だった犬が亡くなりました。

 

その後3か月、何かしら生きていたはずですけどw

ほとんど出来事を覚えてない…滝汗

 

この間死んだ犬がくるまでぐすん

 

18歳~28歳まで、ほとんど10年間霊堂に納骨し

供養してもらい、その後集合墓地に埋葬してもらいました。

 

ほんとうに大事でした。

 

でも、日が経つにつれ思い出す頻度も減り、

後悔も薄れて、だんだん霊堂に行くのもおっくうになったのが現実です。

 

供養っていうのも、生活の中になければ

ずっとするのは厳しいです。

 

ましてや、お墓、という考えが私は好きではない。

 

墓の前で手を合わせないと供養じゃないの?

なら海外で住んでいて日本に親族のお墓があって

10年帰ってません、でも毎日思い出して忘れたことはありません…

 

という人の供養の形は届かない????

 

これは考え方によるけど、宗教って例外がないので

正式には供養の形にはならないかもしれない。

 

でも、しょーーじき、年代とかによっても故人の供養の仕方って

だいぶ変わってるな、とも思うんだわ…

 

いろんな考えがあっていいけど、私は火葬のあと骨を箸で渡しあう

あの行為も好きではありません。

 

形がなくなってしまった、ということに執着する気がしてしょぼん

 

最初から形はない気がするからさ私は…

だって光だから元は。

 

なので決めてあるのは、母親のときはしない。

 

火葬場にも行くかわかんない。

母の妹と会うのやなんで。

 

その理由で、お通夜お葬式もしないかもなと。

 

てか私だけがやればいいかと。

 

正直な…人が亡くなる、って残された側はやることと

負担しかないんや…

 

お金もかかる、メンタルもやられる、なのに親族の酔っ払いを相手して

意味わからん

 

でも、不思議なのは

 

できるだけ生前好きだったものと送ってあげたくなることねねー

 

何一つもっては逝けないのにね

 

でも、そのたくさんの喜びをくれた小さなからだを

 

できるだけ柔らかい布団や散歩紐とおやつ

お花でいっぱいにして火葬したい…

 

これは思いやりのひとつだと信じます。

 

なにも持っては行けなくても

こちらの自己満足でも…

 

今回、実家の犬が亡くなったことで

自分の死生観を自覚する機会になったのと

 

いつも元気で会えると過信しない、誰であろうと。

できるだけ後悔のない選択を。

 

母との距離にも影響があった。

 

ショックだけど、後悔も涙もまだ出るけど

 

時間がたつのを待ち、

 

49日までは、きちんと仏教式に供養してこうと思うぐすん