2005-09-17 05:52:26

旅に出た:ドイツ紀行

テーマ:生臭見解
海外出張ふたたびである。
今年は2ヶ月に1度の頻度で、中国か欧州である。

世界の脈動に立ち会える感じでうれしくはあるが、しかし、
家庭をおろそかにしているようで申し訳ない。

ここの所の欧州行は仏国が英国であったので、ひさびさの独逸は新鮮であるはずであった。
自分の中で、英語の次に使える言語である独逸語が披瀝できるし、うれしくすらある。

だが、まだ2日目であるが、つまらないことこの上ない。
そもそも今いる、フランクフルトは欧州金融の大中心でありながらも、人工は65万人。
東京はおろか、川崎の4分の1たらずである。

着いたときの印象は、「岐阜羽島みたい。」であった。

岐阜羽島のことを馬鹿にしているのではなく、Middle of Nowhere感がなんだかあった。
街の運動量の少なさ(東京に比べて)、とでもいいましょうか。

そして、昨晩は、寝ている間に部屋に置いていたお金を盗まれた。。。。。。
ラテン国家ならばいいのだが、独逸で、そして、一応佳い宿らしいLe Meridienで、である。。
ただ盗まれるだけなら額も知れてるのでいいのだが、寝ている間、というのが何とも気味が悪い。。。

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今回はいつもの車屋のお仕事のために、フランクフルトモーターショーの偵察である。
よって、本日は、東京モーターショー(幕張メッセ)の5倍くらいある規模を歩き通した。
疲れた。とても。

お仕事のことはまあ、置いておいて。

この小さくはあるが、独逸ひいては欧州の玄関口である、この街の国際都市らしさを感じた瞬間があった。

国際化とは何か。
我々は単民俗国家に居るため、「外人さんがうろうろしてる」くらいのことのように思ってしまう。

だがそれは極めてレベルの低い事象である。

国際化とは何かといえば、
それはたとえば、海外に出た日本人にとって、その滞在先で、
国は違うにもかかわらず、そこで日本の事象や痕跡によく出逢う、ということである。

そういう意味では、日本は、そして特に東京はかなり国際化している。
世界中の料理が食べられ、マクドナルドやKFCや7-11は至る所に有り、
海外の商品も至る所で簡単に手に入る。

来訪者にとっては、確かにお金はかかるかもしれないが、母国の味などを感じようと思えば雑作ない。

さて、私がここで目撃したのは、

ドイツでイエモン

ゴミ箱に伊右衛門@街の真ん中。

かなりの確率で、日本からもちこまれたのだろうが、
私がふらっと歩いてであうのだから、こういう光景が実在する蓋然性は高いのだろう。

独逸が、フランクフルトが、国際的なのか、我が国民が国際的に活躍しているのか、
のいずれかに原因があるにしても。

しかも、この伊右衛門とは、仕事の関わり上極めて深いつながりのあるブランドであるゆえに、
感慨深いものすらあった。

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明日もフランクフルト。

だがしかし、さすがに明日が終わる頃にはここに飽き飽きしているだろうから、
その後は、どこかに逃げるかも。
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2005-09-15 01:10:15

公案1-5 シンメトリーと快 アシンメトリーと楽

テーマ:公案
ここで皆さんに残念なお知らせが有る。

私、また海外出張となる。
ので、もはや禅味ある旅ブログは卒業、と思っていたのに、また旅レポートだ。

またすこし出張が国内外たてつづきそうなので、
どうも、旅ブログ化はさけられないようだ。 嗚呼。

さて、公案1世代の積み残しもあと2つ。

標記の、シンメトリーとアシンメトリーについての公案へいざ。

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シンメトリー=左右対称
アシンメトリー=左右非対称

という分類であるが、この世の具象すべてが半々にこの分類で分かれるのならばよいのだが、
そもそもそんなはずはない。

この宇宙の大部分を占める自然物は、ほぼアシンメトリーだからだ。

つまり、「シンメトリー」という、近代の感性ではわりに理想視されるものは、
創作された概念であり、その恣意性を表すかのごとく、
自然にあるものは、だいたいシンメトリーでない。

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しかし、シンメトリーの価値神話が生まれるのは、それは「見た目」の話だからである。

均整がとれ、全体に平等で、「完全」さすら感じさせる、左右対称なものたち。
近代の典型的美感覚からいえば、これほど重んじられるうるものはない。

しかしながら、私はあまのじゃくなので、とてもつまらなく思う。

そこには、こちらを受け入れる懐の広さはなく、
ただおすましして、自らの完璧さを誇るばかりである。

完璧はなるほど理想かもしれないが、
何事も満たされ果たされ仕上がってしまえば、あとは衰退あるのみである。

出来上がった瞬間から、衰退が始まる存在など、
そもそも出来上がらねばよいのではないかと思う。

シンメトリーなものたちも、またそうである。

完全球を掘り出したとしても、あとはひたすら
自らの完全さを損なう、風化のプロセスが待ち受けるだけだ。

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しかしながら、シンメトリーに対して、価値が認められているのも事実である。

思うにそれは、とても純粋な観念として意味が有るのだと思う。

中高とつまらなく聴いていた、幾何学の授業のように、
あくまで理念・抽象のものごととして、真円だの真球だの、正三角形だのは頭の中に存在する。

理念は当然風化はしないのだから、そこにはある種永遠めいた絶対感がある。

つまりは、我々は人工のシンメトリーなアイテムを目にしたとき、
そこで、幾何学的な抽象図像の具体化を見、
そして、理念よ永遠なれと、快を覚えるのである。

あくまで、具象物そのものの価値ではなく、それが描き出すアウトラインの純粋な抽象性の価値である。

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ここまでシンメトリーに関し、乱暴な雑感を書き連ねてきたが、
とても、肩が凝る話である。

ワーグナーの楽曲のように、そこには思弁の純粋性からくる高揚があるのであろうが、
そもそも論理とはあくまで人工的なものであり、
我々はシンメトリー文脈を続けるために、風化に負けないスピードで、
次々にシンメトリーな具象物を創り続けなければいけないのだ。

ただの抽象像にしかすぎないこれら。

途中で述べた通り、私はこのよの造形物の大半はアシンメトリーとおもい、
シンメトリーを疎ましく思う。

アシンメトリーには、ウィットや懐の深さや、息づかいが有る。
そうして、抽象像たるシンメトリーを嘲け嗤うかのごとく、
たいそうリアルに自らの存在を自然にさらけ出している。

そこには勢いがあり、脈動があり、風化をものともしない生命力がある。

そして、私が佳いと、楽しいと、感じるものも多々ある。

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アシンメトリーな大部分のものにとってみれば、
「シンメトリー? しゃらくせえ。奴らは生きていない。ひたすら死への坂を転げ落ちているんだ」
とでもシンメトリーに言ってやりたいのだろう。

生は確かに死への坂を転げ落ちることでもある。
しかし、生きようという意思や努力がそこにはあり、結果として迎える死に対しても、
あくまで生ける存在としてむきあうものである。

ただのお面にすぎないシンメトリーにはそれはない。
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2005-09-07 02:39:28

公案1-4:妄想学習

テーマ:公案
すっかり、また、blog離れしてしまいました。

わずかながらの読者の方々、すみません。

もはや、blogというよりも、エッセー集化している事実に、なかなか素直に向き合えず、
心根からのパワーを必要とする、仕事の日々の業に萎え、
そういえば日課にしていた、就寝前の読書もかれこれ途絶え、
食生活も乱れ、
湿度の多さに眠れず、寝たとしても寝疲れし、
それにつられて、我が飼い犬殿も発狂し、

と、そんな御託だらけで、すっかりかけませんでしたー。

ふぅ。

さあ、いざ、堂宇の中で、公案を。

どうでもいいが、blogなりmyHPなり、というオンラインドメインを持つということは、
つまり、自分のお堂を持つということなのだろう。

手入れを怠れば、雑草がはえ、尋ね人も減り、うらぶれてしまう。

>>

妄想学習、公案1シリーズの積み残しから、手をつけようぞ。

そもそも酔っぱらいながらこのblogは書いているので、
文意も酩酊しておれば、列記された言霊も、どうも見当が悪く、
別の酔い方を常にするこの時間帯だと、遡行してなんで挙げたか分からない。

だが、挑もうぞ。

>>

私は、中学と高校の多くの部分、男子校で過ごした。
絆と体と情報と欲求が千鳥格子のように組みあい、
ただその模様の中で、染まり続けた日々。

その中の友垣をつくるのは、
同じ妄想に同意できるか、ということであった。

なぜ、男子校を語るのか、というと、
どうも、男子は女子には語れないほど、どうしようもない妄想に、
暇があれば浸ってしまうということが、正しそうだからである。

ここでいう「妄想」がいかなるものか、については、
男子となんらかつながりのある女子であれば、
すぐに想像し、雰囲気をつかめるものだとおもうので、
多くは語らない。

その妄想は、ロマンであり、また、
競争環境の中で、子孫長栄を思う存在としては当然かもしれぬ。

だが、愛すべきほどに、どうしようもない。

>>

私は、それらから、どうもいろいろ学んだように思う。

例えば地震がくる。
その時、私はあまり動揺しない。

例えば突然警察から呼び出しがくる。
その時、私はそれほどに先を案じない。

例えばとんでもない失敗をしたとする。
その時、私は自殺を考えはしない。

そして、私は、
戦地に無邪気に赴いたりせず、
ひざまずいてプライドを保とうとはせず、
単なるイライラを転嫁して人を責めることは貧しいことだと思う。

これらは、言ってみれば、過去の妄想ロールプレイング経験の賜物である。

過去の妄想の中で、いったいどれほど
自分は恋をし、勇者になり、国を動かし、
自分は格好よく振られ、塗炭をなめ、死に、
そして、妄想の後、そんな妄想をし、浸っていた自分に、
ドン引きになったことだろう。

妄想の中には、自己愛と絶対化、
そして妄想後の自己へのお寒い評価と相対化が、
かならずついてまわるものだ。

>>

だが、妄想は、極めて反社会的なものと断ぜられることがある。

「あなたの妄想でしょ」と言われ、
”妄想癖”は、ほぼ、あちら側への片道切符のように扱われる。

だが、学習とはロールプレイングである。

そして、そこに居るだけで簡単にでき、そして経験を積むほどに内容が高度化する、
妄想は、自己学習の主要なリソースと言ってしかるべきである。

>>

公案は、妄想と冷静のあいだを行き来する。
情熱と冷静の間、と言った方が聞こえがよければそれでもよい。

黒い衣装をまとい、世俗から逸脱した人々が巡らせる妄想、
そして、それが積み重なって今に続く法灯。

私は、かようなものを受け入れ続ける日本の文化と歴史が、
最近とても興味があってしょうがない。

さて、
妄想は、確かに、浸りっぱなしで帰って来れなくなれば、
まさに、あちら側への切符となるが、だがしかし、
妄想することは、自由を個人自身で感じられる根源的契機ではないだろうか。

もっと妄想せよ、とは言わない。

だが、妄想は、少なくとも、自分自身一人一人の中では、
昔と今の自分との比較をしたときに、思い出されてもよい功労者だと思う。

妄想はしなくてもご飯は食べられる。
だが、妄想はためになる。

>>

夢は有るか、と問われ曖昧になる若者がおおいらしい。

だが、夢などどうでもよい。

妄想した?、と問われ、どれほどにおもしろおかしく恥ずかしい妄想を語れるか、
そこに文化の底力と、文芸の将来があるのではないか。

そして、妄想しない、妄想を語れない、妄想のスキルが低い、
そんな世の中はごめんだと思う。

だって、喋っていて楽しくないもの。

妄想、はファンタジーと言えば、なぜかよく聞こえる。
また、ROMANと書けば、歴史を感じ、小説文芸そのものの名前でもある。

西欧文化のあけっぴろげ感、も、じつはこのあたりの市民権度合いかもしれぬ。

>>

この公案は結ぼうとすればするほどに、言葉が生まれてくる。

だが、締めよう。

体を動かす力は、食物の化学作用により生まれる。
心を動かす力は、気分の化学作用により生まれるのではないだろうか。
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