今回の一連における北朝鮮関連の出来事で、日本政府による朝鮮学校無償化対象の除外と黒岩祐治神奈川県知事による神奈川県の朝鮮学校の補助金停止を述べ事態は一層深刻さを増しております。

その主な理由として、「日本人拉致問題が何ら進展がなく、度重なるミサイル発射や核実験など、もう我慢にも限界がある。国民感情や県議会の決議もある。総合的に考えて計上しないことを決めた」としました。

なにが「我慢の限界」なんでしょうか。

bubkaさんの記事と著しく重複してしまいますが、アメリカが核実験を行なっても沖縄で少女暴行や度重なる不祥事を起こしてもアメリカンスクールが無償化対象から除外されることはありませんし、尖閣問題で自衛隊の護衛艦が中国軍艦から射撃用レーダーを照射されても中華学校は除外されません。

しかしこれが人権主義・教育機会均等主義からくる当然の帰結であり、それが朝鮮学校に適応されないという奇妙な結果が生じます。

この黒岩という知事はじめ、日本の政治家は不条理にも北朝鮮問題と在日問題を同列に扱い本心として「差別」をしたいがための異常な口実付けに過ぎません。神奈川新聞にも記載されてありますが、この問題においてどうすることもできない在日の方々に責任転化して朝鮮学校で学ぶこどもたちに制裁の肩代わりをさせる非人間的卑怯行為を犯しているという現状です。そもそも、如何なる国であろうとも選択し、学ぶ権利がこどもにはあります。国内でくらす外国人、あるいは外国にルーツを持つこどもたちの教育を保障することは国際社会の一員としての当然の責務であり、自らそのルールを逸脱しては国際社会の輪を説き、北朝鮮を非難する資格を失ってしまいます。(※すでにこのことで国連から是正勧告を受けておりますhttp://imadr.net/activity/un/ (国連人権制度活用 反差別国際運動))

これはなんたる惨状でありましょうか。

今日の無能な政治家たちは、自分たちの未熟な交渉術からくる拉致問題の成果なさから、在日の方々を「人質」として扱い関係ない「民意」というものを持ち出し一般民衆を巻き込むほどしか技量がないのです。

まさに政治家の風上にもおけない連中です。

本来の政治家としての役目は、民主主義を至上命題とし国家をよく整えそこで暮らす全ての人々の安全安心に全力を尽くすべきなのに、人間的良識の欠片もない汚職や人権蹂躙といった蛮行を平気でする厚顔無恥さから断じて糾弾されるべきであります。

日本のやる「制裁」というのは、単なる人権蹂躙であって在日を差別する行為そのものです。
黒岩知事は北朝鮮による拉致事件の被害者、横田めぐみさんの両親である滋さん・早紀江さん夫妻に面会を重ね、その悲嘆に触れてきたはずです。

滋さんはかねて、拉致事件の解決には制裁ではなくたいわこそが求められているとし、朝鮮学校とどう向き合うかと北朝鮮の問題は別々に考えるべきだと口にしてきました。
早紀江さんはかつて本誌インタビューに「自分が優位に立っていると考えることから悲劇は始まる。戦争も、北朝鮮との関係も同じことが言える」と語りました。拉致事件が被害者よその家族を一顧だにしない蛮行であったのと同様に、不信や憎悪を背景にした独善が対話を阻み、悲劇的な結果を迎えてきた、との戒めました。

私はどうも彼ら政治家は問題を解決する気そのものに疑いをもっております。
10年という長い歳月を要しても一向に解決しないところから、拉致被害者などどうでも良く問題を利用して在日を差別を正当化したり、北朝鮮バッシングを強めることによって戦後補償をうやむやにするのが狙いとしか感じません。「対話と圧力」とかいいながら「圧力一辺倒」ですしね(呆)

今回は前置きが長くなってしまいましたが、日本における「在日差別」の悪しき歴史は一世紀にも及ぶほど根が深いものであり、韓国併合から現在におけるまで存在しています。

戦後においては、日本政府は北朝鮮成立以前からあった朝鮮学校の強制閉鎖を目論んだり、外国人登録証明書の指紋制・在日学生の学割非適用など凶行を挙げたらキリがありません。
(これらの差別はみな在日の方々が度重なるデモを通して、正当に撤廃させました。)

政府以外にも民間レベルの差別があったり、今現在の在特会・ネトウヨの無法行為などがあります。

こうした「差別」を考えてみると、私たち日本人がいかにこの問題に対して無関心・無教養かをまざまざと思い知らせれます。在外邦人は別として本国で暮らす日本人は、決して脅かされることなく生活的安寧を享受できています。それが当然であり今後とも確立されていくべきものですが、ひとたび外国人となるとそういったものが全て失われ、まともな人間的生活を確立できなくなるという不条理が発生します。

マジョリティの言い分としては、「それならば日本人に帰化すれば良いではないか」という意見を聞きますがそれは「差別」という重大問題を無視する暴論であり決して口にしてはいけないものです。つまり他者である外国人を排斥し、己らの価値観基準で道具化する全体思考そのものなのです。自分の思い通りにならない他者をさまざまな暴力によって排除・抹殺することは、むしろ全体化にとって致命傷なる結果をもたらしました。ユダヤ人哲学者であるレヴィナスは、第二次世界大戦に親兄弟すべてをナチスに殺された経験から、「迫害されるために選ばれた民族」の一人として、この人間以下に扱われたユダヤ人の運命とその信仰を背負いながら、人間の存在意義を考えました。

そしてその答えとして、全体化の態度は決して貫徹できるものではないとし「異なる他者を承認する無限の交わり(経験)」を通じて自我を構築する基礎倫理が必要不可欠だとしました。

レヴィナスから学べる意義として、私の意見は人間自身の「経験の限界性」というものが頭の中に浮かびました。それはどんなに勉強して「知ったつもり」でいても、結局は当事者とは切り離され深淵を介した「断絶」を余儀なくされるのです。 差別という問題を扱っていて具に感じたのが、この「断絶」における他者への無理解や無関心、そして現在の差別現象を呼び起こさせているのではないのでしょうか。

今現在の私としては、この問題の解決に対する明白な「解答」が持てません。

私たちがどんなに努力しても、当事者との間に「経験」という断壁が生じ、常に私たちの前に立ちはだかるのです。それは我々の精神がいわれもなくこの「世界」に投げ込まれており、その瞬間から孤独な経験としての自我のスタートが余儀なくされます。

つまりそれから演繹して私たちは「たまたま」日本人として生まれたのに過ぎませんし、それに対する自我の選択権はありません。在日もまた同じなのです。

そして大方の日本人が「他者への潜在的恐怖」から外国人を差別し、空虚な自己優越感情をもって自分たちの論理を押し通そうとする行為が、人間の存在論から照らし合わせてまったく幼稚で現象に忙殺された哀れな人間そのものなのです。

今まで在日の方々は、不条理な環境から闘争に闘争を重ねてまさに「革命」を通じて自己精神(理性)を拡大成長させ「大人」になっているのに対して、何ら不自由なく甘ったれた生活に享楽した私たち日本人はヘーゲル流の弁証法から「客観を認識できない子供」です。

彼ら在日にとって人生の選択は一層深刻さをはらみ、極論においては「強者か弱者」の二つの選択しかないのです。ブルーハーツの曲で、真島昌利(マーシー)が作詞作曲した『平成のブルース』のフレーズで「お金があったら差別も怖くねぇ、みんなお金の言う事きくから」というセンテンスに深い感慨を覚えました。

この詩からも読み取れるように、成功者は文字通り社会的強者を意味しその反対に成功できなかったら被差別者は相当の迫害を余儀なくされてしまいます。

私は思います。
そんな劣悪な環境下でもめげずに闘争を繰り返して人間権利を取得し、多方面で数々の成功者を生んだ「在日」の方々に心から敬服しエールを贈りたいです。
それは文字通り彼らの卓越なる「究極選択」においての所産でありますし、数々の卑劣な差別者の蛮行をも跳ね返す力を持っていると信じています。そして私たち一般日本人大衆が「他者への理解」をいち早く気づき実践しなくてはなりません。これはまさに喫緊の課題であります。

私自身も微力ながらその力添えに貢献すべく日夜勉学を通して、健全なる社会発展に努めるべく邁進して参ります。

最後に、この曲を贈りたいと思います。



アナーキー『心の銃』