いわき絵のぼりは、いつ、どのように生まれ、なぜ今も受け継がれているのでしょうか。
旗指物から節句文化へと至る流れをたどりながら、その歴史と背景を整理します。
※本記事は2026年に内容を整理・加筆しました。
いわき絵のぼりの起源と歴史・文化背景 ── 旗指物から武者のぼりへ
・歌川貞秀の合戦図錦絵より
絵のぼりの源流となった旗指物
1|絵のぼりとは?
——「絵のぼり」とは、
端午の節句に飾られる伝統的な旗であり、
その絵柄は、子どもの健やかな成長を願う
祈りの造形となっています。
- 龍、鯉、鍾馗、武将など、縁起の良い図像を描く
- 地域ごとに様式や筆致が異なる
- 家々で立てる旗は、神を迎え入れる「依り代」
中でも「いわき絵のぼり」は、
墨と顔料による肉筆の一点ものとして、
現在も制作が続けられている希少な伝統工芸です。
・庭に掲げられた
鍾馗の絵のぼり
2|戦国の旗指物から節句飾りへ
—— 絵のぼりの原型は、戦国時代の
「旗指物(はたさしもの)」にあります。
武士たちが合戦で、
敵味方を識別するために掲げた旗です。
平和な江戸時代になると、
この旗文化はやがて、
「武家における、
男児の端午節句に飾る祝いの旗」へと
変化していきました。
- 男児の誕生と成長を祝う風習
- 家の前に旗を立て、神と地域に知らせる
- 武士文化の象徴が、家族単位のまつりへと変化
それが「武者のぼり」「節句絵のぼり」として
現代に続いています。
3|成長祈願の旗印
—— 江戸中期には、
「鍾馗」や「源義経」など、
神仏や武将の図像を描いた絵のぼりが登場。
これは単なる装飾ではなく、
子どもの成長祈願を託し、
福を招く象徴的な図像=守護神的な役割
として飾られていました。
4|江戸期の文献に見る、いわき地方の絵のぼり
参考文献:佐藤孝徳『磐城の幟の歴史と現況』
—— いわき地方では、江戸時代初期に
すでに絵のぼり文化が存在していました。
特に注目されるのが、
磐城平藩主・内藤義概(ないとうよしむね)の
御触れです。
- 天和3年(1683年)、藩主が端午の節句に絵のぼりを飾ることを推奨
- この史料は、いわき地域における節句絵のぼりの公的な関わりを示す貴重な記録
これは、全国的に見ても極めて古い時代の、
節句絵のぼり文化伝承例であり、
藩の文化振興と共振していたことが伺えます。
5|文化による町づくり —— 藩主・内藤義概
—— 内藤義概は、
文化振興に力を注いだ藩主でした。
- 八橋検校を召し抱え、邦楽の基礎を築く(近世箏曲の父)
- 狩野派絵師との交流や和歌・俳句にも秀でた
- 延喜式内社の比定など、地域の歴史再評価に尽力
その文化振興の一環として、
いわき地方の絵のぼり文化は育まれました。
・内藤義概が育てた八橋検校の曲は、
現代の邦楽に影響を与え、
今なお広く演奏されています。
6|参勤交代と地方への伝播
—— 節句文化が地方へ伝播した背景には、
寛永12年(1635年)に始まった、
参勤交代制度の影響も大きいと言われています。
- 各地の武家が江戸に集まり、文化で威信を競う気風
- 江戸で流行した節句の風習や工芸品が、地方へと伝播
- 絵のぼりも、武家の旗指物の文脈をもつ節句飾りとして各地に広まった
いわき地方の絵のぼりも、
このような流れの中で定着し、
藩主による推奨によって年中行事を彩りました。
・江戸に絵のぼりが飾られた景色
葛飾北斎『五月の景』より
7|平和な時代の象徴
—— 武具ではなく、絵の旗を掲げること。
戦ではなく、子どもの成長を願うこと。
それは、戦国時代から江戸時代に移り、
武家にとって平和な時代となったことが
深く関わっています。
江戸の町では、町民文化の発展とともに、
職能としての絵師が数多く誕生しました。
その結果として、
武家の象徴である旗指物が、
節句祝いの大型のキャンバスとなり、
絵のぼり文化が花開いたのです。
8|いわき絵のぼりの現代的な意義
——いわき絵のぼりは、
- 戦の記憶
- 武士の信仰
- 絵師の技
を受け継ぎながら、
現代においても一枚ずつ手描きで制作されています。
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