いわき市の伝統工芸・いわき絵のぼりの歴史(端午の節句の武者のぼり)
絵のぼりとは?
「絵のぼり」とは、端午の節句に飾られる日本の伝統的な旗の一種です。地域ごとに特色があり、武将や龍、鯉などの縁起の良い絵柄が描かれます。
いわき絵のぼりは、手描きで作られるのが特徴で、中でも「鍾馗(しょうき)」の絵柄が代表的です。鍾馗は魔除けや厄除けの意味を持ち、子どもの健やかな成長を願うシンボルとして描かれます。
いわき絵のぼりは、地域の伝統と文化が色濃く反映された貴重な伝統工芸品です。
いわき絵のぼり吉田の工房に掲げられる「鍾馗」の絵のぼり
旗指物と武者のぼりの関係
端午の節句には、いわき絵のぼりのような「武者のぼり」を飾る風習が今も受け継がれています。この風習の起源は、戦国時代の武士が使用した「旗指物」にあります。
旗指物は、合戦で敵味方を識別するために使われていた旗です。平和な江戸時代に入ると、これが武家の男児の初節句に飾られる縁起物へと変化し、絵のぼり文化が生まれました。
いわき絵のぼり(武者のぼり)は、神様を家に迎え入れ、子どもの成長を見守ってもらうための「依り代(よりしろ)」として掲げられました。まさに、武家社会から発展した風習と言えるでしょう。
いわき絵のぼりと内藤義概の推奨
参考文献:佐藤孝徳『磐城の幟の歴史と現況』
いわき絵のぼりは、江戸時代初期の文献にも記録があります。磐城平藩主・内藤義概(1619~1685年)は、天和3年(1683年)に端午の節句に絵のぼりを飾ることを推奨する御触れを出しました。この記録は、いわき絵のぼりの歴史を裏付ける貴重な証拠となっています。
藩主が自ら絵のぼりの普及を推奨した例は珍しく、全国的にも古くから伝わる節句絵のぼりの文化であることがわかります。
文化によるまちづくりをした藩主・内藤義概
磐城平藩主・内藤義概とは、どのような人物だったのでしょうか。彼の業績を振り返ると、文化振興に大いに力を注いだ人物であったことが分かります。
その一例として、「近世箏曲の父」と称される八橋検校を召し抱え、邦楽の発展に貢献しました。また、幕府御用絵師・狩野常信と親交を深め、和歌や俳句にも秀でた文化人でもありました。
内藤義概の業績は、いわき絵のぼり文化の発展にも影響を与えました。彼の推奨により、絵のぼりは地域に広まり、今日に至るまで受け継がれています。
内藤義概が育てた八橋検校の作曲した曲は、現代の邦楽に大きな影響を与え、今なお広く親しまれ、演奏されています。
さらに、磐城地方の神社における延喜式内社の比定を行い、その歴史的意義を再評価するなど、地域の歴史の掘り起こしにも熱心に取り組みました。
参勤交代と絵のぼり文化の伝播
その頃の特筆すべき時代背景として、江戸初期の寛永12年(1635年)に始まった参勤交代が挙げられます。全国の武士たちが江戸に集まり、各地の文化が交流することで江戸の文化は大きく発展し、その影響は地方の風習や行事にも浸透していきました。
「江戸に端午の節句の絵のぼりが飾られた景色」(葛飾北斎『五月の景』より)
端午の節句のような年中行事もその一例で、江戸初期に絵のぼりが磐城地方に伝播したのは、参勤交代などによって江戸文化の影響を受けた、自然な流れと言えます。内藤義概による推奨も、この文化の普及に大きく寄与したことは間違いありません。
いわき絵のぼりと文化振興の時代背景
戦国時代を経て、平和な時代に移行する中で、内藤義概は地域の文化振興を進めました。絵のぼりの推奨も、文化的な活動の一環として町を華やかに彩ることが目的でした。「いわき絵のぼり」は、そのような文化振興の気風に影響されて発展したと考えられます。
これからも、「いわき絵のぼり(手描き武者のぼり・五月節句幟)」にまつわる歴史を紹介していきます。今後ともぜひブログをご覧ください。
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