2022年12月21日、ちょうど一年前の私は第一志望校の入学試験を受け、あっという間に憧れの大学に入学してから一年間経った。

 

 大学の建築学科に進学したばかりの頃、建築ではなくいきなり彫刻の課題に入って、生々しいコンクリートの塊と向き合うことになった。最終講評・採点後、作るのに5週間合計100時間かけて大事にしていた自分の作品は10分で壊したら何の変哲もないコンクリートの欠片になってしまった。

 

 作業中に削り落とした「要らない」、「不要な」コンクリートと丁寧に扱って「作品」となるコンクリートは、本質的な違いがないと、私はそれに気づいたら物質的なものを信じなくなったような気がする。

 

 五月のゴールデンウイークでは、家に閉じこもって近代建築史マップを作成した。建築に関する自主研究の始まりを象徴するそのマップは今でも大事にしている。知識を蓄えることの喜びを初めて知った。

 

 その後、「彫刻とは何か」「建築とは何か」「芸術とは何か」など、物事の根源を問い続け習慣を身につけた。ここまでは建築や芸術にしか興味を持っていないが、建築や芸術の本質を探究して自分なりの答えを出そうとするたびに、最終的に哲学にたどり着いた。それ故に、哲学を勉強するようになるのは当たり前のこと。学部を卒業して大学院で哲学を専門にしようと、考えたこともある。

 

 

 美大生の私からすると、一般的な大学とは違い、美大は知識を習得する場ではなく自分を高める場所、作品を制作するための場所である。インプットせずにアウトプットばかり求められるという。私のような、本当に芸術に強い関心を持って表現したいことや作りたい作品がいっぱいある学生にとって、美大は間違いなく天国だ。一方、なんとなく美大に入っちゃった学生や専門知識を習得したい学生からすると、色々な意味で美大での生活は楽しくないと、個人的にはそう思っている。美大に対する評価は両極端に分けられるのはまさにその理由による。

 

  彫刻課題が終わってからようやく建築の勉強が始まった。製図やCADの使い方くらい、建築を設計するのに最低限の知識を与えてからとりあえずやってみるという教育方針は美大らしくてかなり刺激的だったが、基礎を築かず、独自のアイデアと建築家としての作家性を重視することが良いか否かが分からない。

 

 美大建築学科で受けている教育について批判したくなり、文書を書くために一時的に建築教育の歴史や各国の建築教育システムの研究に没頭したこともある。

 

 基礎知識を持ってない学生にとって、授業に追いつけないのは想像に難くない。それ故に、できる学生とできない学生もはっきりと分かれられている。クラスメイトの中では建築専門の高校を卒業した優秀な学生がいる。建築に詳しくなってから自分を高めるために美大に入るのは正しい歩み道であると、私は思う。

 

 私は彼に及ばないが、ここまで積んできた予備知識は大学一年生にとって充分である。私が作った作品は今年のオープンキャンパスで展示されることになり、私も前期では代表者として早稲田大学の教授にプレゼンを行い、後期では代表者として東京大学の教授にプレゼンを行った。自分なりに頑張って、良い結果を得た。

 

 前期授業の終わり頃、今年六月に明治大学へ足を運び、日本の大学から優れた卒業設計を一堂に集めた盛大な建築お祭り「学生設計優秀作品展」に行って大きな勉強になった。自分の小学校のリニューアルや祖父のための建築など、自分自身の経験を卒業制作の出発点にする学生が多かった。私自身の経験に基づいて面白い建築ができそうな気がして、大学一年生の頃に既に卒業制作を考案し始めた。

 

 最初に思い付いたのは未来都市の計画案のようなもの、子供の頃からずっと高層ビルに囲まれた生活を送っていて、のどかな田舎暮らしは私とは無縁の生活だった。高校時代にニューヨークで過ごした四年間、そして今は大都市の東京に移住した。そんな私は現代都市を研究したくなるのは当たり前のこと。

 

 建築学科の場合、ほとんどの人が卒業制作で大きな模型を出すことになるが、私は模型に興味ない。前述のように、物質的なものを信じない故に最初から模型を作るつもりはない。卒業制作といえるような作品は一冊の本、或いは私自身は「作品」であるべきだと、私は思う。

 

 前期授業が終わってから、やるべきことは三つまで絞った。そして、これからの三年間をかけて大きなものを研究することにした。

 

 続き…