謹んで新年のお慶びを申し上げます。
 旧年中は大変お世話になり、誠にありがとうございました。
 本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 今年(2023年)は、宗祖親鸞聖人の御誕生850年、浄土真宗の立教開宗800年という節目の年にあたります。京都市・東本願寺(真宗本廟)では、これを記念して3月25日から4月8日までと、4月15日から4月29日まで、2期に分けて「慶讃法要」が執り行われます。この法要のテーマとして「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」が掲げられています。
 このテーマに関連して、同朋新聞(令和4年12月号、令和5年1月号)に「生き物たちがおしえてくれること」と題して、動物学者で『ざんねんないきもの事典』を監修なさっている今泉忠明氏のインタビュー記事が掲載されています。

 私たち人間だけが「死生観」を持っていて、「死」を理解することができるのです。そして、私も「必ず死ぬ」ということを知っておかなければなりません。でなければ「死」を必要以上に恐れたり、忌み嫌うことになります。「死」とは何かを正しく学び伝えることも、人間として大事なことなのではないでしょうか。また、「死」を理解しているからこそ、次世代へ「いのち」を受け継いでいこうとするのですが、生き物として「いのち」を受け継ぐだけではなく、先人たちが今日までに築き上げてきた文化や、多くの経験から得られた知恵も、同時に受け継いでいかなければなりません。その為には次世代に「何ができるか」を考えて行動することが必要で、人間として他者に対して「思いやり」や「感謝する」という基本的な姿勢が不可欠です。この基本的姿勢がなくては、人間が人間として成り立たなくなってしまうのではないでしょうか。と、ここまでがインタビュー記事を読んで思ったことです。

 仏・法・僧を仏教の三宝といい、三宝を大切にすると唱える三帰依文は「人身受け難し、いますでに受く」と始まります。「人身」とは私たち人間のことです。数多ある「いのち」の姿として「なかなか生まれることが難しい人間として、生まれてくることができてよかった」という意味です。改めて「人と生まれた」意味をたずねる時、稀にして人間として生まれたこと、必ず「死するいのち」を生かさせていただいていること、また、今日までに受けたご恩を忘れることなく、和顔愛語の精神を持って生涯をかけてたずねていきたい。そして、私の「生きる姿」が次世代の人たちの「手本」とまでは言いませんが、せめて「見本」ぐらいになれればと思うことです。
南無阿弥陀仏