◆鈴木利宗『地獄の伊東キャンプ、1979年の伝道師たち』要旨
・「とにかくね、夜、目をつぶった瞬間、朝になる。
それが怖くてね、、、本当に、その恐怖感を毎日味わっていた、そんな1ヶ月間だったんです」
江川卓はいま、訥々とあのときを振り返る。
怪物をしてそこまで振る上がらせた、およそ1ヶ月にわたる合宿生活は、後に「地獄の伊東キャンプ」と形容された。
・1979年10月28日。
東京・読売巨人軍の若手から選抜された精鋭18人が東京駅に集合した。
Bクラス、5位という成績でその年のペナントレースを終了した長嶋茂雄監督は、
数日前に、自身がコーチングスタッフとともに厳選した彼ら18人を呼び出していた。
・10月28日、キャンプイン当夜は、長嶋以下コーチ陣、選手、スタッフ全員でミーティングが行われた。
長嶋は話し始めた。
「なぜこのような、過去に例をみない秋季キャンプをやるのか。
諸君は重々、先刻ご承知のことと思います。
実はこのキャンプには、ベテラン勢の参加申込もありました。
しかしあえて、18人というこの若手諸君、つまりヤングジャイアンツのみに厳選させてもらいました。
なぜなら、この伊東キャンプを巨人軍の新しい歴史のスタートにするためです。
この秋季キャンプは技術を磨くのではなく、心を磨くキャンプだと、肝に銘じてほしい。
どんな艱難辛苦にも耐えて、生き抜く心身をつくるんだ。
その意識革命のために、我々はここ、伊東に馳せ参じたんだ」
・「カン、カン、カン」
警鐘のように響く物音で、江川は朝、目覚めた。
時計を見れば午前6時過ぎ。
起床は7時だったはずである。
外を見ると、ユニフォーム姿の人間がふたり、窓越しに確認できた。
長嶋監督と松本匡史だった。
「鳥かご」と呼ばれるバッティング専用のケージのなかで長嶋のアドバイスを受けながら、松本が打撃練習をしていたのである。
・18人が集合すると、体操をした後、長嶋を中心にして周囲を散歩した。
朝食を摂り、練習開始は午前10時。
投手陣の練習は、午前中は「ただひたすら」の投げ込み。
昼食をはさんで、午後は2時から筋力トレーニングと陸上トレーニング。
ここから江川の想像をはるかに凌ぐ恐怖が、ベールを脱いだ。
腕立て伏せ、背筋などが激しく行われた。
・筋トレが終了すると、投手陣はバスに乗せられ、山奥へと連れて行かれた。
見れば、意図的につくられたような高低差のあるデコボコ道。
そこで、いきなりダッシュを命じられた。
有名な「馬場平クロスカントリーコース」である。
何回も続くダッシュが終わると、スケジュールとしては、ここから入浴して夕食、
夜の自主練習という流れが、一応あった。
だが、午前の投げ込みの後にやらされた走り込み、筋トレが、すべての体力と気力を奪い去った後なのである。
・練習というのは面白いもんで、
『誰も自分以上にやっていない、自分がいちばんやっている』っていうのはすごく自信になる。
試合中、ある場面までいくと。
満塁になったとき、バッターはバッターボックスで、よく『無心になる』という。
なんで無心になるかというと、自分がやってきているので、
負けるわけがないと意識が無心にさせる。
・野球を離れた後にも、それはあてはまるんです。
ああいうキャンプを越えてきたときに強くなるということは、
野球だけでなくていろんなことにも共通するだと思う。
江川はそう語る。
・馬場平でのダッシュと延々と続くランニング、そして腹筋、背筋の「強筋」も、
西本聖は一切、手を抜かないことを誓って、完遂した。
「人間ね、人に言われて追い込むのは嫌でしょう。
でも、自分で大きな夢や目標を掲げて、それを乗り越えるのは、
楽しいことではないけれど、苦痛だけれど、嫌ではない」
西本は語る。
・朝の鳥かご、練習時間のティー、ショートバッティング、夜の素振り。
松本匡史のスイングは一日千回を優に超えた。
スイッチヒッターと外野へのコンバートを命じられた松本は、ノックとバッティング練習をひたすら繰り返していた。
しかし、何日たっても、ボールが当たってくれない、守備でもボールが全然捕れない。
悔しさ、惨めさ、不安。
それらがいっぺんにこみ上げてきた松本は、突然、グランドに這いつくばって涙を流した。
遠方に見ていた長嶋は、駆け寄ってきた。
「どうした、マツ。怪我か?大丈夫か・・・」
そうして覗き込むと、松本の頬が涙で濡れている。
しばしのあいだ、松本の嗚咽がつづいた。
それを黙って見守っていた長嶋は、ポツリとこう、つぶやいた。
「いいなあ、マツ、涙汗か・・・」
松本は、伊東に来てはじめて、心がやわらぐのを覚えた。
・篠塚和典は、走り込みと下半身強化の重要性を以下のように述べている。
「俺は下半身を鍛える=体力・精神力の強化だと思っている。
ケガをするときは、ほとんどが下半身から来ます。
下半身が弱いと、上半身にも悪影響が出る。
スイング、守備でバランスが悪くなっている状態のとき、肉離れを起こしたりする。
伊東キャンプ当時のトレーニングは、器具を一切使わなかった半面、ケガに強い心身をつくるという理に適ったものだった。
だから、伊東キャンプを経てレギュラーになったメンバーの多くは、年間を通して故障が少なく、
タフな現役生活を送っているでしょう」
・長嶋の理念として、
「すべての成功において、足腰の鍛錬が基本中の基本である」というものがある。
伊東で走るメニューに力を入れたのは、それを乗り越えてきた選手は、
心身ともに折れない、強い選手になるという、自らの体験を踏まえた上での教訓なのである。
「やっぱり足は、野球だけに限らず基本中の基本だね。
足腰の鍛錬は、すべての練習の中心じゃないかな」
長嶋は言う。