花火のあとに | おやまだやまと公式ブログ『推譲(すいじょう)』

今日、朝から昨日の花火大会を多数の人がみていた下曽我の中央農道を走る機会がありました。

 

ゴミが散乱していました。

 

自分のことしか考えない日本人が本当に増えたな?

 

改めて強くそう思います。

 

どうして、自分の出したごみ位、持ち帰るとか、公共の場において捨てるとかしないのか?

 

自分さえ、自分たちさえ花火を楽しめればそれでいいのか?

 

そういう輩が、この地球を、世界を、日本を、地域を、今のような持続不可能な世の中にしてしまったのです。

 

その一方で、地元のおばあさんが一人、中央農道でゴミ拾いをしていました。

 

これぞ、昔からの日本人の美徳と感じずにはいられません。

 

そのあと、酒匂川の河川敷、花火を打ち上げていた場所を通りかかったら、若い人たちが(外人もいましたね)ビーチクリーンみたいなことをしてゴミ拾いをしていました。

 



自分のことしか考えない日本人もいれば、世の為、人の為を実践する人もいる。

 

人間の真価はこういうところで問われているのだな、と思ったりもします。

 

朝から本当にお疲れさまでした。

 

さて、酒匂川の花火大会を本当に久々に鑑賞しました。


若いころは、それこそ、鈴廣に勤めていた時代には、何回か酒匂川の河川敷にて仕事としていったり、若い社員とデートみたいな感じで参加したこともあります(笑)。

 

まだ20代の前半のちょっと甘酸っぱい思い出とも言えますね。それが、初老ともいわれる45歳になろうとしているのですから。。。

 

実は仕事で行ったときには鈴廣の会長のお供をして(つまりおつきですが)まわったことを思い出します。

 

鈴木智恵子と言えば小田原の女帝ともいわれる人です。まだ生きているんですからね。


95歳くらいになっているかとは思いますが。この智恵子さんとも因縁浅からぬものがあります。


私の人生の師である鈴木悌介さんの母ごぜに当たるので、いろんなところで出くわしました。

 

智恵子さんは加藤憲一小田原市長と最後はそりが合わず、守屋輝彦市長を誕生させたときの影のドンのような存在でした。


必然的に、私が「一人10万円問題」を問題にして小田原駅東口で「一人決起した」。


僕はこの時、高杉晋作気取りで「功山寺の一人決起」のひそみに倣ってやった「魂の演説」なのですが、


これを問題視されて、鈴廣グループとたもとをわかつ結果となったわけですが、


私をそーいう立場に追いやった大本は「ここ」だと言われています。

 

色々やられまして、ある種の土壇場まで追い込まれたわけですが、そこからの私の反撃は、皆さんご存知のとおり(笑)。


間違いなく私を「スーパーサイヤ人」にさせてしまいました。


四年前に死にぞこなった人間が、前以上に力をつけてパワーアップして、ここにいる。


という状態になったのは、皆さんにもお判りいただけるかと思います。

 

まあ、しかし、本当に辛かったですけどね。

 

しかし、まだ入社一年目の私は、当然そんな力などあるわけもなく、会長のお供をして、


当時の小澤市長や、市橋助役(当時は副市長をそう呼んでました。市橋さんには私は別途、収入役時代に目をかけてもらい知己がありました。が、その話はまた長くなるので割愛)などに、


助六寿司を私が持って、智恵子会長があいさついくところ行くところ、寿司を運んでは渡すという事をやってました。

 

その時に、智恵子さんも何か役職をやって居たのですが、そのお供が一段落して、


鈴廣の社員さんも、酒匂川花火大会は鈴廣さんは大スポンサーなので、関係者席に社員やその家族が見に来れるのですが、


そこのお膳立てもおつきの僕は総務の人と手伝いをしていて、それも一段落してみんなでひな壇にいる智恵子会長の話を聞く機会がありました。

 



市長や何人かの人が話をしましたが、その誰よりも22歳の僕には智恵子会長の話が胸に刻まれるいい話でした。


23年近くたっても、その光景がまぶたに浮かびます。

 

何を言ったのか?

 

「今年もこうして、花火をあげることができる」

 

今年も昨年と変わらずに、何事もなく花火を変わらずあげることができる幸せをかみしめている。そうしたことがまた、来年も再来年も、永劫に続くように

 

そんな祈りともとれる話に僕は、22歳の若い自分は「いい話だな」と思ったものです。

 

鈴廣という小田原を代表する企業を当時は率いてたのが会長でもありました。


自分たちに何かあれば、こうして安寧に花火などあげることなどできないという強烈な自負心とプライド。


そして、今年も変わらず業績が安定していて花火にお金を出すことができるという安堵感と安心感。

 

こーいう世の中が続いてほしいという思いは、智恵子会長が戦争を経験し、その中で風船爆弾を製造中にケガをして指を一本なくしている、


という


「戦争だけはごめんだ」「平和こそ大事なんだ」「何事もなく、今年も去年と同じように平和でみんなが安心して花火を見て家族や恋人、大切な人との団らんという安寧がどこまでも続いてほしい」


そういう願いに満ちた言葉だと僕には感じられたのです。

 

変わらない、という事を否定的にとらえる向きが若い者にはあります。僕もそうです。今でもそういうマインドが強いことも事実です。ですが、

 

変わらない、

 

ということに価値がある、ということに気づかせてくれた会長の言葉は、いま改めて年を私が重ねて45になろうとしているからこそ思い返してみて「いい言葉だったな」と思います。