備忘録で長いのでご興味ある方だけお願い致します。
お盆のことになりますが、10日間という長い間、徳島へ帰省していました。
結婚してから10日間も帰るのは初めてです。
6月、母は、大昔ですが叔母が膵臓がんで亡くなっているから、膵臓を調べてもらおうと主治医とは別の医療機器が充実した地元の病院へ検査に行きました。
膵臓を調べた後、甲状腺もエコーしておきましょうとなり、検査。細胞をとり、別の機関へ検査にだす。
←なぜ、甲状腺の検査することになったのか?未だに詳しく分からないのですが、母もどうだったかなあ?と覚えてないらしい
後日、検査結果を聞きに行くと、甲状腺に粒のようなものがあるが、何か?というのが分からず、結果不明。
が、医師いわく、ガンの可能性もあるため、徳大病院を紹介される。
〈7/13 〉
徳大へ行く日、私も仕事を休んで母に付き添って徳大へ。
結果、甲状腺の乳頭ガンと判明。
乳頭ガン?それって乳ガンじゃなくて??みたいなわけのわからない感じで。
医師いわく甲状腺のガンの中では90%ぐらいを占め、進行の緩やかなガンで、リンパへの転移はあってもほかへ転移はほぼなく、生死に関わることはない、とのこと。
この時点では、母だけが診察室に入り、娘も呼びますと言ったが、後日家族には説明します、とのことで、医師が紙に書いてくれた説明を見てなんとなくわかる感じ。
なんかショックでだけど、症状が全くない母はいつも通り元気で明るく、診察室からも笑い声が聞こえる。
疲れて徳大病院の上階にあるレストランで母と二人、眺めのいい場所で食べたけどとにかくまずかった
〈7/20〉
再度、今度は母一人で行くというので、手術にむけて、検査にいく。
1日がかりでかなり遅い帰宅。
8/14手術と決まる。
〈8/8〉
医師から家族への説明ということで、父と共に3人で病院へ。
予め乳頭ガンと分かってから、いろいろ調べて疑問だったことをメモして行き、医師に聞く。
乳頭ガンの大きさは、2センチ以上から大きいとみなし、母のは1.2センチ。右葉の方にできている。
手術してとれば、根治確実。その後、抗癌剤治療も通院も必要なし。
首の根本あたりを切る方法と鎖骨の下から内視鏡手術する方法。どちらもすべてにおいて、精度は一緒とのことでより傷が目立たない鎖骨の下の内視鏡手術を選択しました。
内視鏡の方が手間がかかるので、手術が1時間長くなるが、高齢の母でもその1時間延びるぐらいでは何の影響もないとのこと。
甲状腺にくっついてあるリンパ節は、転移していようがいまいが、一緒に手術でとるというルールらしいので、右葉+リンパ節切除予定。
リスクとしては、声がかすれることがまれにあるがそれも日が薬でじょじょに良くなるとのこと。
〈8/12〉
入院。
たまたまですが、今年の私の仕事も8/11から20まで休みで、お盆に手術なんて、ことごとく母はもってる!と思う。
休みじゃなくとも当たり前に付き添ったけど、やはり休みだと気が楽。
やはり、毎月毎月、亡くなった祖父母の好きなものを作ってはお仏壇にお供えし、お墓まわりは草一つなく草刈りし、ご先祖様を大切にしているので、守られているのだとつくづく思う。
初めての母の入院、手術に戸惑っていたのは紛れもなく私で、食欲がなくならない私でさえ食欲が落ちる
毎日、徳大へ通いたいから、近くのホテルをとろうと思ったらお盆で、しかも、阿波おどりがあるので、どこも満室。
徳大から実家までは1時間、仕方ないので汽車で毎日通うことに。
勿論、父に送ってもらえる日は送ってもらうのですが、母が心配している実家の犬たちの世話や畑を父がやってくれるので、毎日というわけにはいかず。
コロナが増えており、面会にいっても、1日1名たったの15分、病棟へ。
少し多めにはみてくれるが、30分が関の山。
母は相変わらず元気。
ごはんがまずくて少ないというので、おやつなど買っていっておしゃべり。
たべるものも制限も何もありませんでした。
〈8/14〉
手術。
手術は3時間の予定。
14時開始予定だが、その日9組手術があるので、時間は前後する可能性。
父と私は手術前オリエンテーションやら入院手続きやらあるので、10時には病院へ。
時間はおして、14時40分ぐらいに手術室へ。
母と一緒に歩いて。
普段から声の小さい控えめな父が、手術室に入る母に大きな声で「がんばれよ!」といったのは驚いた。
家族待合室で待って電話を待つが一向にかかってこず、次々と他の家族が呼ばれる。
最後の2組になる。
3時間の予定が長すぎて長すぎて、3時間半たっても4時間たっても呼ばれず、途中何かあったのでは?と不安がよぎる穴があくほど、電話を見つめる。
19時すぎ、やっと電話がなり、HCU(ハイケアユニット)に向かう。
担当の女医さんから、とったガンの部分とリンパ節をみせてもらい、リンパ節の方は転移していたかどうか調べて後日とのこと。
手術も手術室に入ってから1時間後から始めたので、ほぼ予定通りで、前に説明した通りすべて予定通りとのことてで一安心。
母の顔を見に行くとすでにしゃべっており、医師いわく、少し手術後ハイでしゃべってますとのこと。
すぐしゃべれる母にびっくりしつつ、疲れさせてはいけないとまた明日来るからとすぐに切り上げた。
医師いわく、コロナ重症患者が劇的に増えており、お母さんには明日HCUは申し訳ないないけど出てもらいますとのこと。
この日、外は台風で大雨。
75歳の父に病院で1日待ってもらい、帰りに運転までしてもらうのは申し訳なかったなあ。
すんごい☔の中、しかも、真っ暗な中運転するのは避けていた父なのでこんな暗い中、運転するの久しぶりぶりやわ、と。
🏠で二人の間、父に家事を教え込もうと毎日やいのやいなのうるさく言って、父も疲れただろうなあと急に父がかわいそうになったり
途中晩御飯をさくっと食べて、遅くに帰宅。
〈8/15〉
手術翌日、母から台風だから来ても帰れなくなったら困るから絶対来ないで!お母さんは大丈夫やから、と言われたので、この日だけ病院へは行かず。
〈8/17〉
予定通り5日間で、この日、退院。
帰りに花杏豆のハンバーグがたべたいと母がいうので、久しぶりに。
ちゃんとおいしいと完食!
あ〜よかったーと思ったのはつかの間。
そこから毎日とにかく食欲がない母。
お茶碗にちょっとのごはんもお茶漬けで流しこむしか食べれないし、おいしくないと
とにかく休ませないとと思い、横にならせる時間を確保。
父に教え込んだ洗濯ボタン押す→洗濯物干す→朝食の味噌󠄀汁のためのだしをとるをルーティン化。
〈8/20〉
夕方、親戚がお見舞いにきてくれるが、母の一人漫談。
とにかくしゃべるのだけは元気!そして、多分無理してる。いつも通り明るく私がしゃべってないと!という感じ。
焼き肉、うなぎ、ハンバーグならたべたい!食べれそうというので、親戚が帰ったあと夜に焼き肉へ。
とにかくおいしい!といつもとはうってかわって、たべる、たべる
食べれるから私も嬉しくて
〈8/21〉
私が神戸へ戻る日。
朝から母の胃の具合が悪く。
お手洗いにこもり始めたら、母の体調が心配なので、トイレ前で必ずどうなん?大丈夫?と聞く。
これはいつものこと。
うん、いけるとのことで、お手洗いから出てきたけど、なんか気分が悪そう。
一応、深いゴミ箱にビニール袋をセットして寝室へもっていく。
ちょっと離れたすきになんか聞こえて行くと大量に戻していて、背中をなでるけど、辛そうでしんどい。
今まで粗食だったのに急に焼き肉なんて食べさせたのがだめだったっぽい。
あーまだ早すぎた、おいしく食べられたらと思い連れて行ったけど、止めればよかった
もう1日いようかとおもったけど、もどしたらスッキリしたようでみるみる元気になってきて
手術どうこうではなく、胃が元々弱いのでそちらのせいで体調悪くなってたみたい。
予定通り、10日間の帰省を終え神戸に戻り、食欲不振のこととか調べていたら、麻酔や手術、あれだけ明るく弱音をはかない母でもやはりストレスを抱えてきっと食べられなくなっていたんだなと気づく。
日を追うごとにたべれるようになり、傷口もじょじょに回復。
まだ手術から2週間ちょっと。
心配も耐えませんが大分良くなってきて、やっと備忘録を残す気になりました。
こんなに心配で不安になったのは初めてでした。
昔、地上職員だった時、「飛行機に乗るお客様全員がワクワクの旅行ではありません。
危篤の家族に会いに行くかも?亡くなった親族のお葬式かも?しれません。その時その時に合った接客を」なんて表面上ではわかっていたつもりでいたけれど、今回のことで痛いほど分かりました。
こんなに嬉しくない不安で心配な帰省は初めてでした。
母が元気でいてくれてこそ、私の心の元気も取り戻せるんだと痛感しました。
今回、数人のブロ友さんも、状況違えど悲しい局面の方がいらして、読んでは涙しました
どんなときもいろんな状況でいろんな立場があること、より人の立場にたって寄り添える私でありたいと思いました。
長々と失礼致しました。