最近の一月万冊の佐藤章さんの配信では、自民党の裏金問題と吉本興業の松本人志さんの問題が取り上げられています。

 

自民党の方は、誰もが信頼回復という名目を掲げていますが、誰も本当のことを言っていない感じがします。

 

というのも、佐藤さんや鮫島さんの解説を聞くと、この期に及んでも誰も懲りていなくて、この機会をどうやって権力闘争を勝ち抜くために利用できるかという観点で、頭を使っているということが見えてくるからです。

 

そしてそれを打ち消すような、別の観点で見させる言葉は、ほとんど見つけることができません。

 

これだけ嘘にまみれていて、本当のことを言わない人たちばかりなのに、やっぱり日本では自民党にしか政権を任せられないよ、と言われているのが、おかしい、というふうに思えてきました。誇大広告に騙されていただけじゃないのか、というふうに思えてきます。

 

松本人志さんの問題の方では、芸能界の同僚が、松本さんのことをすぐに切り捨てることもできないし、かといってかばうと世間から批判されるということで困っているさまが報告されています。

 

でも聞いていて受ける印象としては、親しく付き合っていた人が、身内をかばう心情から、犯罪を疑われていても見捨てない、という人間としての情愛を感じるというよりかは、誰も彼も見識が幼稚なレベルに留まっていることを感じます。

 

社会意識が整っている、社会人と見ることができる人は、むしろ被害者や業界から放逐された人(放逐され気味)の方に多い、という感じがします。

 

これらの事例から、これまで世間から一目置かれていた人が、実は人の模範になるような人物ではなく、またそういう人が一人や二人でなく、ある領域では層をなして空間を埋め尽くしている状態にある、ということが感じられます。

 

それで、物事をあるべき姿に戻すにはまず、ゴミを一掃しないことには、どうしようもない、という感じ方に導かれます。

 

政界も芸能界も、ついでに言うと、司法界もメディアの世界も、ゴミに溢れていて、まず掃除しないとどうしようもないと言っている人は以前からいた気がします。

 

でも実際には、それらの業界は一般人よりも権力・権限があって、一般人はそれらの業界に対して決定権も持っていなければ、どうにかする力を持っているわけではないので、厳しく非難することはできても、先方では無視したら済むという状況だったのだと思います。

 

一般人が力を持たない理由は、意見をまとめて、一緒に行動することができないからです。もし意見をまとめて一緒に行動できれば、社会的な組織は一般市民の意向に沿う限りにおいて存在を認められるという建前があるので、一般市民の意見を無視することは難しくなります。しかし少数の人しか意見を言わないのであれば、他の多くの人の信任を得ていると言い張ることが可能になるわけです。

 

今でも、人々が意見を合わせてまとまって要求を発するということが困難なことには変わりないと思います。それで、仮に「ゴミ掃除」が必要だとしても、それが実行できるかどうかはわかりません。

 

しかしそういった実行する局面を考える前に、人をゴミ扱いして掃き出すことが正しいと言うことに、僕は少し、これでいいのかなと思うところがあります。

 

僕は子供の頃から、仲間外れにされて、多数派に入れてもらえなかったので、それで堂々と多数派の側に立って発言しようとすると、自分が似合わないことをやっている感じがしてくるのかもしれません。

 

権力を持った大組織に対して異議申し立てをする人たちは、少数派であることが多いので、そちら側につくことは、多数派について少数派をいじめることとは違う気がします。

 

しかし最近見えてきた状況は、かばいようがないほど腐敗が進んだありようで、相手をかばう理由が全くないことから、相手がまだ力を持っているのであっても、正義を振りかざして罪人をなぶりものにしている感じがしてくるんだと思います。

 

打たれてもたいして堪えないほどの余力を相手は持っているかもしれませんが、理念的には申し開きのしようがなく、どうやってごまかすかで頭を悩ませている状況だと思うので、それで正義を掲げて糾弾している側が、いじめているように映るのだと思います。

 

権力的にはそれほど優勢ではなくても、理念的には圧倒的に優勢だからです。

 

自民党の場合は、冷静に考えても、政権交代をしてもらった方がいい、ということになるでしょう。

 

嘘ばっかりついて、自分たちの中で誰が総理・総裁になるのか、というシミュレーション・ゲームのようなことをして、本当に社会が必要としている措置を全くやらない、ということが明らかになってきているからです。

 

嘘をついていて、本当のことを一切言わない、というところも困りますが、必要なことをせず、やってもらっては困ることばかりするところも困ります。

 

個別の案件では、グローバリゼーションの中で、多国籍企業がどこの国を草刈り場にするかという流れがあって、自民党の議員は自分が総理になるためだったら、国民の健康でも売り渡す、という判断をしかねない(既にやっている)ので、一刻も早く退場してほしい、という要望が上がってきています。

 

テレビに出ている人でも、何となく誰もが模範とすべき成功者のように見えていた人が、実は社会人になりきれていない子供みたいな人だった、ということがわかると、もう見なくてもいいかな、というふうになってくるかもしれません。

 

これまでは、この人たちはゴミだと指摘する人がいても、それは物事の一部であって、いいところもあるんじゃないか、という、かばう立場が成り立っていたと思います。

 

しかし事ここに至っては、かばうのにかなり無理が出てきて、ほぼ全てがダメで、ゴミと言って差し支えないという感じになってきたのかもしれません。

 

「民主党政権の悪夢」とか、「芸能界で生き残れなかった人の負け犬の遠吠え」とか言って、自分たちの信用を高め、批判する相手を貶めることをうまくやっていただけで、実際の内容を見たら、評価されるべきもの反対だった、ということかもしれません。

 

以前は、本心を伏せて嘘を語る部分もあるが、本当のことを語る部分もあるという人がいて、そういう「清濁併せ呑む」人が、大きな仕事を成し遂げるということがあったのかもしれません。

 

今ではその言葉は、小物が自己弁護に使っているだけで、本当のことは全く言わないし、精神の中には表ざたにできないことしか存在しなくなっている、ということかもしれません。

 

人をゴミ扱いすることが、正しくない場合は、その人が本当のことを抱えていて、少しは本当のことを言っているのに、見る側がそれを見落としていて、不当に低い評価を与えている場合でしょう。

 

しかしどこを見ても本当のことが見当たらない時には、ゴミ扱いしても、不当な評価にはならないと思います。というのは、何の力もない一般人や失業者や病人をつかまえてゴミ扱いすると人権侵害になりますが、何かの大きな権限を与えられるポジションにふさわしくない人がついている場合に、そこからの退場を求める時に、頑強に抵抗して要求に応えない人がいたら、語調が強くなってゴミ呼ばわりすることも、しょうがないかなと思えるからです。