いのち
時々読みかえす詩があります。
昭和35年 奈良で生まれ、
15才で亡くなったやっちゃんこと
山田康文君の詩
生まれた時から
母に抱かれ 背負われてきた
重度の脳性マヒの
やっちゃんの詩です
ごめんなさいね おかあさん
ごめんなさいね おかあさん
ぼくが生まれて ごめんなさい
ぼくを背負う かあさんの
細いうなじに ぼくはいう
ぼくさえ 生まれなかったら
かあさんの しらがも なかったろうね
大きくなった このぼくを
背負って歩く 悲しさも
「かたわな子だね」とふりかえる
つめたい視線に泣くことも
ぼくさえ 生まれなかったら
ありがとう おかあさん
ありがとう おかあさん
おかあさんが いるかぎり
ぼくは生きていくのです
脳性マヒを 生きていく
やさしさこそが 大切で
悲しさこそが 美しい
そんな 人の生き方を
教えてくれた おかあさん
あなたがそこに いるかぎり
昭和53年に出版された本
「おかあさん、ぼくが生まれて ごめんなさい」
(向野 幾世著・産経新聞社)
扶桑社より 復刊
ドラマ化されテレビ放送もされたようです。
言葉も話せず、手足も不自由なやっちゃん。
先生が あげる言葉と、
やっちゃんが表現したい言葉が
一致すれば、
目をぎゅとつぶって、イエスのサイン
違っていれば
舌を出してノーのサイン
そうやって、作詩されたそうです。
この詩の完成から 2カ月後、
やっちゃんは天国へと旅立った…
今日も
‘いのち’ を教えてれた
やっちゃん
ありがとう
生まれる前のメッセージ
結婚した時、3人子どもを産もう!
そう決めた。
一人目が宿った時、
すぐに 長男だと確信できたし
二人目も長女とわかったの。
まだ、ちいさなお魚のような時から
性別までが確信できたの。
一度も どっちかな とは思わなかった。
本当に 不思議な勘だった。
生まれてみると子育ては想像以上に、
なにもかもが
大変で
私の臨界点を超えてしまった。
だから、
3人目は あきらめた。
絶対 無理。無理だから無理。
もしも、もしも、
約束している赤ちゃんがいたら、
本当にごめん。
って、
掃除機かけながら、
ご飯を作りながら
心の中で
謝っていたのよ。
そんなある日、
知り合いの叔母さんが、
ランチを食べにおいでと誘ってくれた。
幼稚園に行っている間の
つかの間の休息。
そして、そこにいたのは
初めて会ったお爺さん。
叔母さんの知り合いだった。
その お爺さんは、
病気で心停止をしたらしい。
そして、臨死体験をして、
この世に舞い戻った
すごい
話をしてくれた。
すごい すごい
エネルギッシュな白髪のお爺さん。
さてさて、帰ろうとした時に
そのお爺さんの本題が 始まった。
そして こう言うの。
「実は昨日、
あんたのところに生まれる予定の人が
私のところに来て
『俺の親になる人を、説得してくれ 』って 頼まれた。
なぜ 産まない?
えっ
お金がない?
子どもは 自分の食いぶち分位は 持って生れてくるから
心配するな。
なに?
大変だぁ?
この子を産まないと、あの世で一生分後悔するぞ。
この世の苦労と、あの世の後悔と、どっちが大変だと
思うってるぅんだぁ!
こんなに生まれたくて、頼みにきてるんだぞ
産め、絶対に産め
」
と、言われている途中から
ハラハラと 涙がこぼれ、
まだ、お腹にいるわけでもない子どもの事で
号泣した。
自分は 生まれる前の人生計画で、
本当に子どもを3人育てる約束をしてきたんだろうな
その日は素直に素直に思う事ができ、
その日帰ってから、家族会議になりました。
『兄弟が欲しい人、挙手をお願いします。』
私と長男、長女が手を挙げて、3対1
パパは ちょっぴり不安そうだったけど、
『大丈夫、赤ちゃんが食べる分は
自分でが持って産まれてくるそうよ』と笑って言うと、
パパも笑ってくれた。
その日、眼には見えないけど、
子宝地図が完成し、
それから 間もなく
赤ちゃんがお腹の中にやってきた。
信じられない話だけど、
信じて良かった。
3人の子どもに会えて
本当によかった。
妊娠6カ月の時、
初めてパパに この誕生秘話をした。
ちょと、引いちゃうかな?って
少し時間をおいたけど
話すと
パパも
なぜだかポロポロ涙を流してた。
私は たまたま
摩訶不思議な説得で
3人目を授かったけど、
きっと、生まれたい赤ちゃんは
必死で
パパとママを説得しているのかも。
この恵まれた 日本で
自分の夢にチャレンジできるんだから。
入社試験
数年前に聞いた 「入社試験」の話です。
ある会社では社長さんが入社試験をするそうです。
そこの会社の入社試験を受けた人のお話です。
その試験は社長が質問を2つだけ
1つめは
「あなたは お母さんの肩たたきをしたことがありますか?」
もうひとつは
「あなたは お母さんの足を洗った事がありますか?」
肩たたきは、した事があっても、
足を洗ってあげた事って なかなか ないはず。
そこで社長は こう言ったそうです。
「お母さんが健在であれば、3日以内にお母さんの
足を 洗って来て下さい。」
「3日以内に母親の足をあらってくる?
それからもう一度面接する?
へんなこと言う社長だな」と思いながら、
入社試験を受けた、ある若者は
家に帰って母に言い出したいけど
なかなか恥ずかしくて言えません。
でも、母の足を洗わないと
次の面接を受けられないから、
2日目の夕方に
「母さん、母さん、ちょっとこっちへ来て」と
縁側に母親を呼びました。
「母さん、今 面接している会社の
社長が母さんの足を洗って来いって。
ちょっと足貸して」と
たらいにお湯を汲んできて、
恥ずかしそうに足を
出してくれた母親の足を
鼻歌まじりに洗いはじめました。
母親の足を洗うと
会社に入社できるぞ、
という気持ちで鼻歌でも出てきたのでしょう。
ところが、右足を洗い終わって
左足を洗いはじめたとたん、
その若者の手の中に、
あまりにも荒れて
ひび割れた母親の足を見たのです。
幼い頃に父親を亡くし、
女手ひとつで自分を育ててくれた母親の
今までの苦労をその手に感じたとき、
感謝と申し訳なさで胸がいっぱいになって
「母さん、長生きしてくれよな」
の一言しか言えず、
初めて自分に優しい言葉を
かけてくれた息子の言葉に嗚咽する母親の涙が、
洗い続ける息子の手に落ちてきたのです。
次の日、再度面接におとずれた若者に
社長はこういいました。
「君はお母さんの足を
あらって何か気付きましたか?
今まで君は決して自分一人の力で
大きくなって来たんじゃない。
いろんな人の支えがあって成長してきたんだ。
そしてこれからは、
社会人になって、お客様同僚をはじめ、
たくさんの人のお陰で仕事や生活ができる。
それに感謝する気持ちを今知ってほしい。
君がお母さんの足を洗って気付いたこと。
それが一番大切なことなんだよ」。
私は
この話を聞いて、
自分の母のゴツゴツの足を思い出し、
母のヒビ割れた手を思い出し、
必死に働いていた母
いつも、いつも 笑っていた
感謝の気持ちが
込み上げてきて、
本当に 幸せな気持ちになった
私も、母と同じ、母の姿を
子供たちに 残したい。
