幸せそうね
うまくいってるみたいね
と言われると

>「いやぁ
あんなことが大変で
こんな困ってることがあるんだよ」


そんなふうに
答えたくなる自分がいた。



幸せです
うまくいってます

そう答えればいいものを
それに臆する自分。

いわゆる不幸自慢をすることが
コミュニケーションの基本に
なっているような

そんな気がした。



よくよく感じていくと

「いいわよねぇ、あなたは○○で」

と言われるのが
イやなのだよね。



責められているような気持ちになったり
妬まれているようにも感じてたり。

だから
本当は幸せでうまくいっているのに
恵まれてるって感じているのに、

「そんなことないよ
私も大変なんだよ
うまくいってないよ」


そう言ったりしていた。



たとえば相手の問題や
大変さにフォーカスして
それと同化することで
自分も大変で問題アリであることを

幸せじゃなくて
うまくいってないことを
宣言し、選択しているような
ものなのだ。

敵意のようなものを感じ
(自分で勝手にね)
許しを乞うために

まるで
自分に訪れている素晴らしいものを
生け贄に差し出してして
しまうかのように(爆)



これは
誰がどうこうというのではなく
私がそういうふうに
受け取っているということ。

私の中だけで
こっそり起こっているドラマ。



人は誰かと
共通の何かを感じることで
その人に好意を感じる傾向が
あると思う。

また
共感は救いでもある。

わかってもらえるんだ
そんな気持ちが心を満たす。

人と安心感の中でつながるのは
素晴らしいこと。

心地よくうれしいこと。

けれど
何でつながるかが
すごく大事だよね。



私のその例で言えば、
大変、問題がある、困っている、
そんな要素でつながっている。
そして、そこから安心感を得ている。

(/´Д`)/イヤァ~

つまり、
自らそういう境遇を選んでいることになる。

(/´Д`)/イヤァ~

悪口や愚痴で
つながった人と一緒にいると

悪口や愚痴を
言っているうちは仲良しで

そうでないと、ぎくしゃくして
全然楽しくないのと同じだ。
<(/´Д`)/イヤァ~



幸せって言うと
うまくいってるって言うと
それを認めると
人とうまくいかないんだ…

そんな気持ちになってしまう
無意識の自分に気づいた時、
そこからの卒業を
決意したのだった。

人と心地よく
あたたかいものでつながりたい。

やさしさや愛を分かち合いたい。

恐れを回避するために
何かを歪めて人と
つながるんじゃなく

心地よさがうれしくて
自然に人とつながる
そんなのがいい。



もういいんだ。
幸せで恵まれた人生送っても。

そして
そのために強くなるんだ。

つながりのもと
変えてもいいんだ。