あけましておめでとうございます。
やぁ、2011年ですね。
新年ってだけでなんだかワクワク(単純)。

娘はお年玉にワクワク(同じく単純)。



大晦日の昨日から、
脳裏を離れないことが。

それは。

恵まれていることに負い目を感じる

ということについて。



おととしの暮れ
アパートから実家に引っ越した時
ある友達がこう言った。


「えみちゃんはいいよ。
 実家に入ったんだから。
 家賃もないし
 家事はお母さんも
 手伝ってくれるでしょう?

 私は違うの。
 一戸建て買ったからローンあるし
 親と同居していないから
 仕事をしながらも
 家事も全部ひとりでやるの。
 大変なの。
 疲れていてもやるしかないの。
 
 えみちゃんはそういうのない。
 恵まれてるんだよ。
 いいよね、楽で」



それを聞いた時
私の心がチクッと痛んだ。
そして、思った。


「ああ、恵まれてることに
 甘えていちゃいけないんだ。
 みんなはもっと大変なのに
 私はダメだなぁ」



なぜか急に
そう思ったことを思い出した。

その時は、そう思って
そして、自分を責めるような
気持ちになった。

ふと、大晦日の昨日
急にそれを思い出し、

それは違う!

と、思った。

いいじゃない、恵まれてて!

と。

人は、その時々
自分にもっともふさわしい
体験をしている。

人生色々なの。

その恵みが
自分に訪れている時

恵まれている自分はダメな人間…

そんな幻想を
いだいてしまったのが
その友達と話した時の私だった。

感じたのは、まさに、罪悪感だった。

恐らく、私以外にも
このトラップに
引っかかってしまう人が
いるのではないだろうか。

新しい年を迎え
私は声を大にして言う。

恵まれていていいんです!

訪れた恵みを
喜んでありがたく受け取ろう。
心ゆくまで味わおう。
その恵みの中で飛躍しよう。

そして、今度は
自分ができることをして
人に与えていこう。

恵まれているからこそ
できることがいっぱいある。

心が、物質が
生活が、人間関係が
満ち足りるからこそ
人に与えられるものが
いっぱいある。

やさしさ、思いやり、笑顔
精神的援助
物質的援助
金銭的援助
いっぱいある。

恵まれているということ
それすなわち
その恵みを人に分け与える機会を
与えられているということ。

決して
怠惰なわけでもなく
ずるいわけでもなく
恵まれるからこそできる
次のミッション(笑)が
与えられているわけだ。

本来、すべてが恵みなのであって
一見、困難に見えるものも
宇宙の愛なのであって。

あああ、どん底ズンドコも
大きな恵みだったよ…

だからこそ
ありがたい、うれしい、ツイてる
そんな形の恵みが訪れたら
胸を張って受け取り

それを大きくして
周りの人や世界に拡大していく
それがいいんだと思う。

いいことがあったから
今度は悪いことがある、とか
またダメになる、とか
そういうのも幻想だから(キッパリ)

恵まれて生きよう。
恵まれて生きることを自分に許そう。
恵まれて生きることを選択しよう。
描いたものが来る。

だから、なおのこと
恵みを選択しよう。

今ある、たとえ小さくても
そこにある恩恵に気づいていよう。

不安や恐れにまみれていても
それを見つけることはできる。

それを見つけると
不安や恐れがちょっとずつ
小さくなってゆく。

そして
さらなる大きな恵みを
もたらしてくれる。

2011年、恵まれて生きよう。

ここで、

「そんなこと言ったって、
 私は恵まれてない、
 こんなにつらいのに、
 こんなに不安なのに、
 そんなこと考えられない」

という思考が生まれたら
つらいままでも
不安なままでもオッケーなので
即座にこう変換してみる。

「今私に与えられている
 恵みはなんだろう?」

って。
それこそが思考の転換。

それをひたすら繰り返すことが
ポイントなんだ。

恵まれて生きよう。
恵まれていることに気づいていよう。
恵まれていることに誇りを持とう。

ねーっ。



私の本名は「恵美(えみ)」。
恵みが美しいと書く名前。

子供の頃はこの名前が
そんなに好きではなかったんだけど
最近は大好き。

父と母から素晴らしい名前を
もらったと思ってる。

子供の頃
父と母が私をこう読んでいたの。

「恵美や、恵美や」

って。

こっち(茨城)の田舎の人って
名前の後に「や」をつけるんだよね(笑)
特に小さい子に。

だから
私のウェブでの名前を
以前の「エイミー」から
「えみや」にしたこともあった。

あの頃
愛されて呼ばれていた名前
愛をまっすぐ
受け取ろうと決めた名前。

そんなことも思い出しちゃった。