鎌倉殿の13人…第28話 | emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

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第28話「名刀の主」


若き鎌倉殿を補佐する

13人の御家人たち、

父頼朝を越えようと

もがく頼家は、

不信感を募らせていく。


13人制での合議、
画面上、右側には比企側、左側に北条側が座っていました。
中央には文官の大江広元、三善、二階堂が座って、中央には
義時と景時が座っていました。

常陸御家人「「大谷」の太郎と次郎が土地の配分で
争っていました。

比企も北条も自分の贔屓の方を押しているけれど、
息のかかった方が有利になるように
譲らない姿勢。

それにしても前回27話ではまだ出家していなかった
三好康信が出家していました。
入道善信ですね。
出家して善信(ぜんしん)になったそうです。

実際には1181年頃には出家していたそうで、
1184年に頼朝から鎌倉に呼ばれて
鎌倉に住んで武家の政務の補佐をするよう
依頼されて、これを承諾したとあります。
この時には中宮大夫属入道善信と呼ばれていた
そうなので、やっと頭を丸めたというところ
でしょうか。

2022/08/01にニュースで、
「草燃える」において三好康信を好演された
石濱朗さんがお亡くなり(2022.7.26)に
なったというニュースをみました。
ご冥福をお祈りいたします。

鎌倉殿の13人の三善康信像とは違う真面目な
感じでした。
義時討伐の宣旨を受けて、大江広元が即時
出兵論をしているところに病をおして
同意している場面が思い印象的でした。

話は戻りますが、八田知家は汗💦で胸はでているし
一応比企側に座っているものの、何とも不思議な
感じでです。

足立藤九郎景盛も比企から眠っていても
良いからと言われていたのもあり、
本当に眠っていました(笑)
きっと比企も具合が良くないと知っていたの
でしょうか?


頼朝と政子の間の次女、三幡姫が亡くなりました。
三幡は字名で、通称は「乙姫」。
大姫の存在が大きいことや、乳母夫である中原親能の
の手元で育てられていてとも言われているので、
あまり目立たない存在でしたが、大姫が亡くなり、
俄に白羽の矢が立つようになったこともあり、期待
されていたけれど、病で亡くなってしまったようです。
京都で名医と言われている「丹羽時長」の往診してもら
うも、1199年6月30日正午頃死去しています。

政子も頼朝が亡くなって半年、
「あの方が連れて行かれたの」と達観したかのように
納得しています。それとは反対に乳母夫である
中原親能は気落ちしてしまっていました。

鎌倉の亀谷に居を構えていたこともあり、
そこに葬られたと言われています。

その後、中原親能は三幡姫が死去したことに伴い、
出家(法名は寂忍)だそうです。
かなりショックだったのでしょうね。

石山寺には中原親能の妻である
「亀谷禅尼」と頼朝の宝篋印塔があります。


2016年に撮影したものです。




あっという間に13人での合議制が崩れてしまいました。

「忠臣は二君に仕えず」という梶原景時と結城朝光との
ことでは、三浦が暗躍しているとは思いませんでした。

「謀反は思い描いた時点で謀反」

頼家に「覚えておけ」と言われて
「覚えておきます」とか梶原景時の生真面目すぎています。

しかし、全部自分の行動に帰ってきますね。


いよいよ御家人との面だったことは三浦義村が
でてきました。



それにしても、義時は怖いです。

多分、全部お見通しだったのではないだろうか?

三浦義村に結城朝光の件を任せれば、

「多すぎる」と言ったものの梶原景時が
失脚してしまうということも…


梶原景時は結局…


ナレ死ならぬ、紀行死でした。


梶原景時…

「盆栽」をしている姿。
盆栽は平安末期から鎌倉時代に入ってきたものと
言われています。
元々都とのパイプは持っていたのでしょうね。
ハイカラな趣味です。

「刀は切り手によって名刀にも鈍らにもなる」


刀は自らが磨かないとも使おうと思っても
使えない。











梶原景時は東海道の静岡で討たれたといわれ
ています。
東山道をとおって落ち延びた息子たちも
いたようです。