ガレの作品6
透明ガラスに半透明の黒ガラスを被せて、トンボをグラヴュールで削り出しています。
トンボの目には茶色のガラスが、カボションしてあります。
カボションとは、ガラス表面に半球状のガラスを熱いうちに固定し、デザインにアクセントをつける技法です。
ガレの作品には多くの昆虫がデッサンされており、もう一つの写真は、ガレのせみのデッサン画です。繊細なタッチにガレのデッサン力の高さを感じずにはいれません。
もう一つ、ガレの素敵なサイトを紹介します。
素敵ですよ!!
ガラス
ガラスの原料は何?
ガラスにはまず『珪砂』が必要です。「珪砂」?たとえば幼い日、公園で遊んだ砂場の砂と、ガラスに使用される珪砂は、基本的に大差はありません。見た目はただの砂なのです。
ガラスの原料としては、まず珪砂。
しかし、珪砂だけだと融点が非常に高いため、よほど高温にしないと、ガラス状にならないので、いろんな原料を入れます。一番多いのが、「ソーダ灰」。正式には「炭酸ナトリウム」(Na2CO3)という名称の白っぽい粉です。それから、「炭酸カルシウム」(CaCO3)。これも白い粉で、基本的には、学校の運動場で引かれる白線の白い粉を想像してもらえれば、いいと思います。
この「珪砂」、「ソーダ灰」、「炭酸カルシウム」が一般に良く使われるガラスの3大原料なのです。ですから、この汎用ガラスの事を、「ソーダ石灰ガラス」と呼ぶこともあります。この言葉に対応するガラスとして、「硼珪酸ガラス」(「硬質ガラス」とも呼ぶ)という言葉があります。耐熱ガラスなどに用いられます。
さて、一般のガラスの原料にはその3つの原料が主に使われるのですが、さらに要求される特性に応じて、様々な原料が入れられます。
たとえば、鉛。みなさん良くご存じのクリスタル・ガラスと称するガラスは、通常は鉛クリスタル・ガラスを指します。あの、かつては水道管にも使われた(現在は使用されていないようですが)、白っぽい金属の鉛がガラスの中に成分(酸化鉛)として入ると、鉛は電子の数が多いので光を多く反射し、輝きや光沢が増し、屈折率も大きくなって、ガラスをよりキレイに見せます。
またガラスを溶融、成型する際にも、鉛が含まれている方が、より作業しやすくなります。ガラスの中に含まれる量は、多いガラスで24%(本来の鉛クリスタルはこの含有率が要求されます)から、4~5%まで。鉛の含有率が高いほど、ずっしりと重い感じで、カットなどの加工もより容易になります。
人類とガラスの関係
人類はいったい、いつ頃ガラスと出会ったのでしょう。
興味ある課題ですね。考古学では、発見からすでに紀元前1500年頃には、古代エジプトですでに透明なガラスを得る方法が分かっており、おそらく紀元前3000年頃の西アジアのどこかで始めて作られたのではないかと言うことになっています。
逸話では、昔イタリアで天然ソーダを扱う商人が、食事のためにフェニキアの浜で大なべに火をつけようと支えに使う大きな石を探したのだが、見つからず、仕方なく積荷の天然ソーダの塊を大なべの支えにして料理をしていたところ火の勢いで、ソーダが融けて浜の砂と混ざってしまったところ、そこに不思議な半透明の物質が流れ出てきた。それがガラスの始まり
なんて、面白い逸話もあるのですが、そもそもガラスは、珪砂とソーダ灰があればできますので、この時代のフェニキアあたりの浜にはたくさんの珪砂がありそこにソーダが、良く出来た話です。
結局、何も分からないのですが、珪砂にしてもソーダにしてもそこらの公園にある砂場の砂となんら変わりない物が、合わさると美しいガラスに変わるのですから不思議ですね。
次回は、ガラスは何から出来るかについて少し詳しく書いてみましょう。
ガレデッサン二点
ガレが考える森
ガレの内面を支配していた「庭園」のイメージと並んで、「森」イメージについても書いておきたいと思います。
囲われ、人工的に整理された庭園とともに、ガレは野性的な未開の「森」を魂の原点として、ガレは持ち続けていました。ガレの工場の裏扉には「われわれの根源は森の奥にあり」と記されていたと伝えられています。
その本当の意味は、ガレ自身にしか分からないのですが、晩年、ガレは生物学・地質学・海洋学を精力的に研究をしていました。そんな中から。まだ見たことの無い、新しいデザインの生命の芽を追及して行ったのです。
そして、そこから出てきたのが有名な「ひとよ茸」や「ガラスの手」などの作品だと言われています。
「手」
ドーム兄弟
1900年のパリ万国博覧会で、スーパースターとなったガレ。
しかし、このときすでにガレの体は病魔に冒されていたのです。ガレは1904年に白血病で亡くなったのですが、この間はガレにとって営業的にも困難な時代でもあったのです。
1900年ごろからの、全国的なガラス器の売上不振と、外国製品の進出、それと何よりも強力な壁は地元ナンシーのドーム兄弟だったのです。
オーギュスト・ドームとアントナン・ドームの二人です。ドーム兄弟は、ガレと違いガラスに関する知識はあまり無く、彼らの父親が共同経営していたガラス工場を継いだに過ぎませんでした。当初は量産の日常ガラス器や食器を製作しており、その間に少しずつ研究して行き次第に経営は安定していきました。
その資金を元に次第に芸術作品を制作するようになり、彼らの作品は最終的にはガレの作品と並ぶ評価をされるようになりました。ドーム兄弟は、ガレの作り上げた革新的なガラス技術を模倣し、さらにオリジナルの技法を加えていったのです。
ガレはその革新的技法を作り上げるのに、何十年も掛かったのに対し、ドーム兄弟は模倣からですから数年で追いついてしまいました。革新より模倣は容易ですから仕方ありません。
ガレはこの時代、博覧会への芸術作品に全てを集中しており、一方、ドーム兄弟は量産品のガラス器で経済的基盤を頑固なものにしてからの出発でしたので、この時代の不況に負けることは無かったのです。ガレもその後、量産品の製造を再開しましたが、1904年帰らぬ人となりました。
ドーム兄弟作(ななかまど)Daum≠Nancy