おはようございます。
只今 絶賛 車中泊一人旅中。九州です。


昨日は こんな感じで 今 阿蘇におります。



朝は









吉野神宮。
今回は 吉野山には行かないで 飛鳥方面に向かいます。




談山神社






談山神社と言えば 乙巳の変(私らの時代は 大化の改新と習った)の策略を談合した場所として有名。


蹴鞠をしていた 中大兄皇子の靴を 中臣鎌足が拾って差し上げて仲良くなったと言われてますね。


談山神社では その蹴鞠体験が出来るみたいですよ。



大事件の談合した場所と言うと 人目につかないこじんまりしてって想像してたけど

天皇の皇子がいらっしゃるくらいだから とても立派な神社さんです。





拝観料を支払い 社殿の中を見せてもらうと

宝物があって その中の

多武峯縁起絵巻がありまして



中大兄皇子が蘇我入鹿を成敗してる場面😱

く、首が飛んでる〜〜〜💦


そう言えば 乙巳の変の話はあまり書いて来なかったけど


☝️これだけ


ちょっとね、乙巳の変については かなりおかしい事が沢山あって いろんな考察が出来るんだけど

(この蘇我入鹿が 暗殺されたのは本当にあった)

まずは、御所 天皇の目の前で そのような強行を

犯すか?

(死の穢れを とても不浄なものと捉えてるのは 天皇の皇子なら 絶対わかるはず。)

1番不思議なのは この乙巳の変は 中大兄皇子と中臣鎌足が決行したと 二人が大化の改新の立役者になってるけど

なぜ、手を下したのが 鎌足でなく皇子だったのか?

光る君へでも、藤原兼家が 『直接ころしてはいけない』と言ってたように そう言う事をすると穢れMAXになるからだし

暴れん坊将軍でも 最後に成敗するのは

将軍本人じゃないよね。



阿智の時も書いたけど 穢れを嫌がって 外国人にやらせてたよね。


ここまでしないと 蘇我氏の横暴を止められなかったから 蘇我氏を成敗したと言う皇子の憤りも判るけど

(最近の研究では、蘇我氏はただ単に悪者だったわけでは無いと言う研究も進んでる。)

そうなると、この乙巳の変は 中大兄皇子の成果で

結局 中臣鎌足の功績ってさほどじゃ無いんじゃね?

(鎌足は 入鹿を切る役目を二人用意していたが 二人が怖気付いてしまったので 剛を煮やした皇子が直接手を下した)

皇子がせっかちだったのかもね。

中大兄皇子の他のエピソードも ドン引きレベルな話が沢山あるしね😅

🤔でも、乙巳の変 大化の改新と言うと 

中大兄皇子と中臣鎌足って 言うよね。


それに対して 皇子がムキー鎌足!ちゃんとしろ!みたいに怒ってる風でもなく

皇子が天皇に即位して天智天皇になってから

中臣鎌足に 藤原姓をあげたしね。

☝️鎌足が 病床で亡くなる1週間前だけどね😂


これに関しては 井沢元彦先生だったかな?

鎌足は朝鮮半島から逃げてきた 王子だった説を言っている。

これは、乙巳の変の後しばらく 鎌足の足跡が一瞬いなくなったり その後の 天武天皇や持統天皇の白村江への出兵の理由とかに関係してるとか

そんな話を書き出すと わけがわからなくなりそうなので この辺りで。。





なかなか興味深い談山神社を参拝して

山を変えて




石舞台古墳




乙巳の変でころされた 入鹿 それを知って自宅に火を放って亡くなった 蝦夷の父 馬子の墳墓

古墳だったのだが


その古墳の盛り土を削られて 石棺が剥き出しになっているのが この石舞台。


ちょっと悲しいよね。


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