先日、Netflixでハリウッド映画を観ました。

日本語字幕をONにして。

 

最初はいつものように英語音声のみで見始めたのですが、内容が「宇宙」とか「科学」とかに関係していたこともあり、早々にギブアップ。

さらに、英語字幕をONにしたけれど、今までのように字幕の速さについていけず…文字を追うのに必死になってしまって、内容が全然入ってこない。

 

いつもなら、それでも無理やり最後まで観るのですが、その日は、

「もういい!」

と諦めの気持ちが湧いてきて、最初に戻して日本語字幕ONで観ました。

 

自分の英語力が衰えてきているかもしれない、という恐怖と不安。

そして、日本語字幕をONにすることで、英語力が足りないことを自分で認めてしまった敗北感のような感情も混ざり、映画を観た後も次の日も複雑な気持ちでした。

 

その一方で、久々に映画を純粋に楽しむことができた喜びも感じました。

 

映画やドラマを観るときは、もちろん面白そうだから見始めるわけなのですが、どうしても「英語」に意識が向いてしまいがちです。

そもそも、ここ何年もの間、私が好んで観る映画やドラマは「アメリカ英語」のものがほとんど。アメリカ英語を学んでいるので、聞き取りやすいし参考にしやすいからです。

イギリス英語やオーストラリア英語、インド英語などアメリカ英語以外の作品には手を伸ばすことが少なくなっていました。

 

観終わった後も、

「あの場面の英語は聞き取れた!」

「あのシーンで知っているフレーズが出てきた。」

「速くて聞き取れない箇所が多かったな。」

など、英語に関することを考えるほうが多いような気がします。

 

自分でもあまり気づいていなかったのですが、いつのまにか、映画やドラマが「楽しむために観るもの」ではなく「英語のために観るもの」になっていたのです。

 

英語音声のみや英語字幕で観ると、内容をしっかり理解できた!と自信を持って言えることはほぼありません。(そうなりたいと願って頑張っていますが…)

そのため、自分の中でその映画やドラマの内容について深く考えることをしません。

しないというか、できないというか…。

 

今回日本語字幕で映画を観て、

「あの場面の主人公の気持ちを考えると泣ける。」

「戦うシーンの迫力がすごくてハラハラした。」

「本当にこんなことが地球に起こったらどうなるんだろう。」

など、映画の中身に関する感想が次々と自分の中に沸き上がってきました。

 

英語にここまで力を入れるようになる前から、私は海外の映画やドラマを観るのが好きでした。

「字幕なしで楽しめるようになりたいな。」

と思ったことが、英語力を高めたいと英語の道へ進んだ理由の一つでもあります。

 

感情を揺さぶられたり、テーマについて深く考えたり…映画やドラマが、自分の内面の成長を助け、私という人間の中身を豊かにしてくれる気がしていました。

 

でも、今は、そういうものよりもまず「英語」に意識が向いています。

英語力を伸ばす助けにはなっていても、私の内面の成長につながっている実感は前ほどありません。

 

英語学習をしていて時々耳にする言葉を思い出しました。

 

「英語力をいくら高めても、それを使って話す内容が乏しければ誰も耳を傾けてくれない。」

 

日本語字幕をONにして映画を観たことで罪悪感を感じていましたが、

英語学習としてはあまり効果がないとしても、

自分の内面を豊かにする時間だったと考えれば、それはそれで良かったのかもしれません。

 

極端に日本語字幕を避けることはせず、上手く活用して自分の内面の引き出しを増やす。

そして、それについてストレスなく語ることができる英語力を身につけていく。

私に必要なのはこの姿なのかもしれません。