古神道5 (山岳信仰2) | 獨と玖人の舌先三寸

古神道5 (山岳信仰2)

狩猟民族などの山岳と関係の深い民族が、山岳地とそれに付帯する自然環境に対して抱く畏敬の念、山岳の雄大さや厳しい自然環境、それに圧倒される感情などから発展したと考えられています。
山を神聖視し、山岳地に霊的な力があると信じ、自らの生活を律するために、山の持つ圧倒感を利用する形態が見受けられます。
そのような信仰形態を持つ地域では、衣食住の全てを、山から流れる川や山裾に広がる森林地帯に依存した生活を送っており、常に目に入る山からの恩恵を浴していました。

水源、狩猟の場と生物、鉱山、森林などから得られる恵み、雄大な容姿や火山などに対する畏怖・畏敬の念。それらは神奈備という神が鎮座する山とし、神や御霊が宿る、あるいは降臨する(神降ろし)場所と信じ、時として磐座・磐境として、祭祀を行ってきました。
また、死者の魂(祖霊)が山に帰る“山上他界”という考えもあります。これは神社神道にも残り、石鎚山や諏訪大社、三輪山のように、山そのものを信仰しています。(他に海上他界、地中他界など。)
農村部では水源であることと関連して、春になると山の神が里に降りて田の神となり、秋の収穫を終えると山に帰るという信仰もあります(穀霊)。

根本、自然崇拝のアニミズム的信仰から発展してきただけに、明治の神仏分離令以降、真言密教系の修験が強かった出羽三山も含め、信仰の本体の多くは神社の形態を取って存続しました。
山が神界として信仰の対象となっていた一方で、死者の霊の集まる他界として、イタコの口寄せをはじめとする祖霊供養にも発展をみせました。
民間でも信仰の顕れとして登山を行う習慣があり、現在でも霊場といわれる山岳をはじめ、多くの人々が登山を行っています。


主に内陸地山間部の文化に強く残り、人を寄せ付けない程の険しい地形を持つ山が不可欠のようです。
この信仰を持つ人々は、険しい地形や自然環境により僅かな不注意でも命を奪われかねない環境にあることから、危険な状況に陥る行為を“山の機嫌を損ねる”行為として信仰上の禁忌とし、自らの安全を図るための知識として語り継いでいるようです。
古来より人跡未踏の地であった山岳に、交通の発達や道具や装備の充実から、登山が安易になり、スポーツや競技や観光として様々な人が入り込んで、信仰における禁忌を破ったりゴミを放置するなど、自然環境に対する不遜な行為や過信から登山事故などが多発しています。これは欧州、南米などの海外の山岳信仰を尊ぶ地域住民の感情も害しています。
信仰における禁忌を犯すと、地域住民は罰が下ると信じ、山をなだめようと大規模な祭事を行うこともあります。これは、一層地域住民に精神的負担を与え、また経済的負担まで強いる結果になります。
ですが、山岳信仰という自然と共存するために培われてきた精神性を、見直すきっかけになっているようです。





現在登山に臨む輩の中には、ずいぶんあまっちょろい、ナメた下衆が多いようです。
何年か前から、報道特集で流れていますが、生命の危機に瀕したから・遭難したから、救助を呼ぶのではなく、“めんどくさくなったから”“疲れたから”“ちょっと困ったから”、ヘリを要請して下山するどあほうが増えたとか。
一番は靴のようですが、服装など装備を整えてこないなどザラのようです。

落雷以外の山火事、その要因のすべてが人為です。